ブラヴォ、の声がまだ追いかけてくるようだ。耳の奥がじんじんする。
身体中の細胞がエキサイトして、ばくばくする心臓が治まってくれない。楽屋の空調の効きはいまひとつで、開演前は緊張も相まって奥歯がかちかち震えたのに、額と首筋の汗が止まらなかった。1人掛けのソファに座りこんだまま、身動きが取れない。
一緒に部屋を使っていたトマスが、そんな三喜雄を見て笑う。
「おいおい
言いながら、彼はクレンジングシートを差し出してきた。どういう意味でらしくないのか、三喜雄はよくわからなかった。
「化粧くらい落とせ、もうアンコールには引っぱり出されないだろうさ」
トマスは三喜雄より2歳年上で、プロデビューして3年目になる。タミーノ役は初めてだったからか、彼も開演前に緊張を口にしていたが、そこはやはり踏んでいる場数が違う。彼は年に2回は役つきでオペラの舞台に立っているので、大きな歓声を一身に浴びた後も落ち着いていた。
三喜雄はオペラに興味が無いこともあり、ドイツに来てからも、自分から積極的に参加していない。合唱が足りないと駆り出されて、春に「アイーダ」の舞台に乗ったのが、こちらでのオペラの初舞台だった。
その時何か目立つようなことをしでかした記憶は無い。なのに、すぐに音楽院のオペラコースの先生から呼び出された。11月の歌劇場の定期公演、「魔笛」のパパゲーノ役のアンダースタディをやってみないかと先生は言う。音楽院の学生に声がかかることはよくあり、モーツァルトでドイツ語なら悪くないと思った。歌曲コースの担当教官に相談すると、勉強になるからやっておけば? とあっさり返された。
アンダースタディなら、日本に居た頃も2回務めたことがあった。まあ、こんな大したことのない留学生に目を留めてもらうのは素直に有り難く、沢山の難しいフランス歌曲を抱えてげんなりしていたこともあり、半ば息抜きのつもりで引き受けた。本役に何かあるなどということは、滅多に無いのだから。
……と、1週間前までは気楽に構えていたのだけれど。
「素晴らしいオペラデビューになったな、あらためておめでとう、三喜雄」
トマスは笑顔で言ってくれた。三喜雄はありがとう、と掠れた声で応じ、デビューという言葉や、いつも親切なテノール歌手の存在にじんとした。そしてクレンジングシートを遠慮なく2枚引き抜いた。
自分の肌よりも少し濃い色のドーランがシートにべったりつくのを確認しつつ、三喜雄は舞台化粧を落とし始める。ようやく上がっていた呼吸も静まってきて、明日のために2幕の場当たりをやっぱり確認しないといけないな、と現実的なことを考えた。パパゲーナが老婆から美少女に変身する場面で、彼女が上手にいなくてはいけないのに下手に立ってしまい、三喜雄も動けなくなった。それで、賛助出演の子どもたちを、混乱させてしまったのだ。
もしかしたら留学先でオペラデビューするなんて、歌手としては幸運なことかもしれないのに、喜びよりも不安が先に立つ。たぶん演出家と舞台監督に呼び出されるので、着替えなくてはいけない。三喜雄は腰を上げて、換気扇を掃除した後の雑巾のようになったクレンジングシートを捨てた。鏡を見ると、消耗し切っているのに気持ちがやたらと高揚し、目がぎらぎらしている自分の素顔にぎょっとした。
楽屋の扉がノックされ、トマスがはい、と返事をした。扉が開き、髪をきっちり纏めたスーツ姿の女性がてきぱきと言う。
「
「彼はまだ着替えてるよ、誰が来たの?」
上半身だけ私服に着替えたトマスが三喜雄の代わりに答えてくれたが、ホールの職員の返事はかなり想定外だった。
「コンディトライ・フォーゲルベッカーのノア・カレンバウアー様です」
「えっ……」