江戸城では、連日次期将軍の選定をめぐって評議がおこなわれていた。その場を仕切るのは、やはり大老酒井忠清である。
本来であれば、徳川の血筋の者をさしおいて、宮将軍擁立など考えられぬことである。しかし家綱治世三十年の間に、やはり将軍権威はお飾りでしかなくなっていた。宮将軍どころか、将軍など木の人形でよいのではという空気は、確かに幕閣の間にもあった。
はたして下馬将軍の威勢には誰も逆らうこともできず、評議の流れはいよいよ宮将軍擁立へと動きはじめた時だった。
「待たれよ! 我が子綱吉をさしおいて都より新将軍を迎えるなど、そなた達まことかようなことを申しておるのか!」
なんとそれは桂昌院だった。予期せぬ桂昌院の出現に座はどよめいた。
「よいか各々方、ここに死にのぞんで、大猷院様(家光のこと)がわらわに託した書状がある。心して大猷院様の言葉を聞くがよい」
桂昌院の気迫に、しばし座に沈黙があった。
「我より後の者に託す。余は死にのぞんで、かの東照神君様と夢で幕府の後のことを語りあった。東照神君様はおおせられた。必ずや近い将来、源氏の天下を簒奪した北条一族のごとき者が現れるであろう。各々方決してそやつの言葉に惑わされてはいかん。徳川の血を守れ。将軍の後継者は、家綱に子があればその子を将軍とせよ。もし子なくば、余の息子たちの中から、早く生まれた者を将軍とせよ」
ここで忠清が桂昌院の言葉を遮った。
「でたらめだ! その書状自体、大猷院様が書かれたという証拠がどこにある! だいたい誰がこの者をここに呼んだのじゃ。おなごの出る幕ではないわ!」
ところがこの時、背後で何者かの声がした。
「桂昌院様をここへ呼んだのは、このわしじゃ。そしてその書状は、まぎれもなく大猷院様の書いたものであるぞ」
その人物は、おそらく齢五十ほどであろうか。しかし全身から伝わってくる覇気とでもいうべきものは、尋常一様なものではない。この人物こそ、天下の副将軍こと、水戸徳川家の藩主徳川光圀であった。
光圀公は、その鋭すぎる眼光で一座を見渡しながら、懐から一通の書状をとりだした。
「よいか各々方、よう見られよ。これがかって大猷院様が我が父に宛てた書状。花押を見るがよい。まったく同一のものじゃ。これはまぎれもなく、大猷院様が書いたものであるぞ」
これには忠清も反論することができず、沈黙するしかなかった。
「桂昌院殿、続けられるがよろしいぞ」
「東照神君様は全てお見通しであられる。かの謀反人は、右の腕に刀傷と火傷のあとがある。その者の言に惑わされること決してなきよう」
この時、桂昌院は眼光をいからせて、
「忠清殿、右腕をまくられよ!」
と命令口調で言った。はたして右腕に刀傷と火傷のあとがあった。
「よいか! これは東照神君様の思し召しじゃ! その者は謀反人である。改めて沙汰する。下がられよ!」
忠清に最後通牒をくだしたのは光圀だった。幕府において、東照神君の名は絶対である。忠清もまた従うよりほかなく、無念断腸の思いで頭を下げ、その場を後にした。
最も、まことに東照神君家康が夢で家光にそう告げたかどうか、居並ぶ幕閣の間にも忠清自身にも疑念があったことは確かである。もしやしたら桂昌院が忠清の屋敷に間者でも放って、火傷と刀傷を調べさせたのではあるまいか?
例え家光が桂昌院に託した書状とやら誠であったとしても、改ざん等はなかったのであろうか? 果たして桂昌院と光圀の間にいかな事前工作があったか? それは両者以外誰も知るよしもない。
この後桂昌院は、居並ぶ幕閣の者たちの前で大演説をおこなう。そして最後に一座をみわたした。
「誰ぞ、我が子綱吉が五代将軍となることに異論はあるか!」
透き通っていて、それでいて凄味のある声だった。座は沈黙し反論する者はいなかった。
「家光様……これでよろしいのですね?」
しばし五十をこえた桂昌院はまるで少女のような目をして、心中家光に語りかけた。
間もなく家綱は世を去った。綱吉は体面上は家綱の養子という形で将軍宣下をうける。時に延宝八年(一六八〇)五月、五代将軍徳川綱吉の誕生である。
綱吉と桂昌院をはじめとしてその家族、そして多くの家臣たちは最初二の丸に迎えられ、家綱の死と共に本丸にうつる。桂昌院にしてみれば、およそ三十年ぶりの大奥だった。木の香りが桂昌院に何事かを語りかけ、その胸に去来するものがあった。
かって十三にして、お万の一介の使用人として江戸城をはじめた見た、あどけなかった少女は五十三にして、ついに大奥の主へと登りつめたのだった。
その席も温まるまでもなく、一人の初老の女性が桂昌院をたずねてきた。その老女は、さすがにかっての色気は失われていた。しかし気品と、おかしがたい品格は、年齢とともにさらに磨きがかかったかのように思えた。すでに二十年以上顔を見ていなかったが、桂昌院にはそれが誰であるかすぐにわかった。
「桂昌院様に挨拶申し上げます」
と老女は頭を下げた。すると桂昌院はすぐに上座からおりた。
「頭をお上げくだされ永光院様、私ごとき者のために永光院様が頭を下げるなど、なんと恐れ多い!」
桂昌院はしばし、永光院すなわちかってのお万の皺深くなった顔を、じっと見つめた。
「なんと、その齢にして気高きこと。それにひきかえこの婆の醜きことといったら、やはり私では貴方様に遠く及びませぬ」
「お玉……」
と万は桂昌院をかっての名で呼んだ。そして桂昌院もまた万様と呼び、三十数年の時をこえて様々な思いがよぎり、ついにその膝の上で泣き崩れた。
その後、綱吉の治世はおよそ三十年に及ぶ。しかし後世の評価は決してかんばしいものではない。綱吉は犬公方と呼ばれ、万民を苦しめた暴君というのが一般的な見解である。しかし生類憐みの令もまた、捨て子を禁止し、身寄りのない老人に手をさしのべるなど、社会福祉政策の面もあったといわれる。
そして桂昌院の最大の功績は、以前にも書いたかもしれないが、なんといっても戦国百年の間に荒廃した日本国中の寺社修復であったろう。
なにしろ綱吉政権時代のお玉すなわち桂昌院による寺社造営、修復は全国で百六ヶ所にも及ぶというのである。中には東大寺、法隆寺など世界遺産に登録されているものもあり、あれいは彼女の存在なくば、これらは現在まで形をとどめていなかったかもしれない。
そしてそれは、今日を通りこして日本国に人が住むかぎり、この国の遺産として継承されてゆくのである。