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エピローグ・大いなる遺産(一)

 延宝八年(一六八〇)世は四代将軍家綱の治世の最晩期である。お玉こと桂昌院は五十三歳になっていた。

 さすがに女としての色気は失われていた。しかし、かっての春日局をおもわせるような貫禄と、どっしりとした安定感がそなわっていた。この三十年の間いよいよ信仰にのめりこみ、毎朝仏壇の前で般若心経をかかしたことはない。そして徳松改め徳川綱吉は、すでに三十四歳の壮年期に達していた。

 綱吉は上野国舘林十万石を与えられ、舘林宰相と呼ばれていた。ただし領国である舘林には一度しか赴いたことがない。綱吉と桂昌院そして多くの家臣は、江戸城にほど近く神田に屋敷をかまえていた。

 四代将軍家綱は「左様せい候」といわれるほど、政治的リーダーシップを発揮したことのない将軍だった。いわばお飾りのようなものである。政治は幕閣任せで、特に家綱治世の最晩期に幕政を牛耳ったのが、大老の酒井忠清だった。

 酒井家は寛永十三年(一六三六)に、江戸城大手門下馬札付近に屋敷を与えられ上屋敷としていた。下馬札とは、内側へは徒歩で渡り下馬の礼を取らなければならない、幕府の権威を意識させる場所である。大老時代の忠清の権勢を物語っている。「下馬将軍」というのが忠清の俗称だった。

 延宝八年五月(一六八〇)、徳川家綱はついに病のため余命幾ばくもない身の上となる。当然、幕閣としては後継者を選抜しなければならない。

 家綱に子はない。となると家綱の弟の中から選ぶのが通常である。かって家綱には弟が二人いた。まず、あのお夏の子で長松改め徳川綱重である。しかしこの人物は甲府を領地として与えられたが、二年前すでに他界している。

 こうなってくると後継者候補の最有力は、やはり綱吉ということになる。ところがである。幕閣を牛耳る酒井忠清は、驚くべき人物を将軍後継候補として推薦する。京より有栖川宮幸仁親王をお迎えして、五代将軍とするというのである。

 かって鎌倉幕府は、源氏の血が三代で絶えた後、京より皇族を将軍に迎えて飾り物の将軍とした。その例にならって、徳川もまた京より皇族を将軍として迎える。そして酒井忠清が、北条一族のように執権として幕府を牛耳るという、恐るべき計画であった。



 さて家綱が危篤となってより以降、桂昌院は神田橋の屋敷で、以前にもまして仏の前で祈る時間が長くなっていた。そして今は亡き家光に問いかけた。

「家光様、この世の秩序はいよいよ失われようとしております。酒井忠清の専横とどまるところを知らず、我が子綱吉はないがしろとされました。都より新たな将軍を迎え、幕政を牛耳ろうとする企み許せませぬ。なれど私はおなごの身、一体いかにしたら、世の乱れを正すことができましょうや?」

 そして桂昌院は、死を前にして家光から託された、風呂敷包を開けてみることとした。そこには家光直筆の書状があった。ふと桂昌院は、あのおりのことを思いだしていた。

「のう玉、余は死を前にして昨今よう東照神君様の夢を見る。お爺様は実に歴史好きな方であられてのう、特に鎌倉幕府の正史吾妻鏡を愛読しておられた。お爺様様は、こうおっしゃられたのじゃ。いつの日か遠くない日に、将軍の権威はお飾りとなる。そして、源氏の天下を簒奪した北条氏のごとき者が出現するとな。

 東照神君様は、遠い将来のことまで全てお見通しでのう。その者がいかなる者であるかまで、はっきりと余に教えてくれた。もしその者が出現した時には、この包を開けよ。そして幕府を救うのじゃ。福はそなたが徳川に災いをもたらすと申したが、余は逆だと思っておる。徳川を救えるのはそなたしかおらん。後のことは頼んだぞ」

 桂昌院は往時を思いだし、そして決断する。固い意志を胸に、小石川にある人物を訪ねたのだった。


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