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【第三章】新たなる時代へ

 家光の葬儀は、上野寛永寺で盛大に行われ、間もなく遺体は家康の眠る日光東照宮へとうつされた。

 しきたりにより、生前の家光の側室は皆尼となった。お万は永光院となり、お玉は桂昌院となった。お楽は宝樹院となり、そしてお夏は順性院となった。お互いに尼僧となった永光院と桂昌院は、あの事件以来久方ぶりに、本丸近くの庭で偶然顔をあわせた。

 両者は、どちらがそれを望んだわけでもなく、しっかりと抱き合う。

「そなたに会いたかった」

「お万様、私もです!」

「お互いの立場に引き裂かれ、今生ではもはや会えぬのではと、胸までもさけそうであった」

「私が愚かであったのです。我が子かわいさのあまり、大事な何事かを見失っておりました。この上は、もし新たな上様が我が子を謀反人と申すなら、その時は出家させる所存」

 と玉は、自らの覚悟を述べた。

「それがよい。我等はもとより僧侶。俗世のことは、一睡の夢でも見ていたと思えばよいのじゃ」

 それから両者は、しばし別れを惜しむように庭を散歩した。

「私は徳松と共に、しばしの間竹橋の屋敷に移り住む予定であります。お万の方様、いえ慶光院様はいずこに?」

「私はまだ、しばし江戸城にとどまるつもりじゃ。家光様が築きあげた幕府の行く末を、今少し見守りたいのじゃ」

「当分の間、また会えぬかもしれませぬなあ……」

 と玉は、いかにも名残を惜しむかのようにいう。

「まことに今にして思えば、我等あの幕府の手の者に捕らえられて以来、今日まで夢をみていたようじゃのう。果たしてそなたと私、幕府のため、そしてこの国の将来のため何を残せたのであろうかのう……」

 永光院の目は、かすかにうるんでいた。そして両者は違う道を行くこととなるのである。



 大奥に、新たな時代が訪れようとしていた。

 将軍の代がわりに従い、それまで大奥にいた者は、お末に至るまですべて立ち去ることとなる。代わりに西の丸の者たちが、本丸に乗りこんでくる。将軍は家綱で、新たな大奥総取締は家綱の乳母・矢島局である。もちろん楽は、将軍生母として至高に地位に君臨することとなる。

 しかしその時には、彼女は心身ともに限界となっていた。家光の死の翌年、ついに楽は病が癒えることもなく危篤となる。

 その死の枕元で、楽は何者かの影を察した。

「誰じゃ?」

「お楽迎えに来たぞ」

 それは家光だった。前将軍は、現世にあった時は立場のせいもあってか、決して人前では見せたことのないような優しい笑顔でいった。しかし楽は、前将軍がさしのべた手を拒んだ。

「どうしたのだ楽?」

「上様、私はまだ死にとうはございません。我が子家綱の行く末が、気がかりなのでございます。あの子は体が弱く、意志も弱く、武芸もできませぬ。かといって他になにか才能があるわけでもなしに、あれでまことに将軍が務まりましょうや」

 すると家光は、かすかに笑みをうかべた。

「何がおかしゅうございます?」

「いや何、わしが幼き頃のことを思いだしておった。福がわしのことを、かようによう人に語っておったわい。家綱は、まことわしによう似ておる」

 と家光は今一度苦笑した。

「家綱のことなら心配することはない。共に天の彼方で、家綱のそして徳川の行くすえを見守ろうぞ」

「上様……上様は私のために泣いてくださりますか?」

 しかし家光は楽の問いには答えることなく、次第、次第にその影が遠のいていく。楽はその姿を追いつつ、ついに永久の旅路へと赴いた。承応元年(一六五三)、くしくも元日のことだった。


 楽の一生は、幼少の頃父が死罪となって以降、まさに苦痛と挫折の繰り返しであった。ついには将軍生母にまで登りつめたが、それがまこと楽にとって幸福であったか否かは、楽自身にもわからない。

 しかも史上彼女は、桂昌院ほどきらびやかな印象で語られることはない。同じく将軍側室で、将軍生母でありながらである。まことに彼女の一生は淡い。

 彼女が唯一、この世で生きた証である四代将軍家綱は、将軍在任中ほどんど政治的決定をくだすことはなかった。幕閣の者に対して「左様せい」と命令するだけの存在だったのである。そのため、幕閣の人をして「左様せい候」などと仇名されることとなった。

 将軍としては無能のそしりは免れない。しかし家光が徳川幕藩体制を基盤をしっかり固めたからこそ、家綱はただ座っているだけでよかった。座っているだけで、将軍職が務まったのである。しかも幼少時より病弱で、将来を危ぶまれながらも、その治世は三十年の長きに及んだ。


 その後、時は流れ、人も移り変わってゆく。延宝八年(一六八〇)、お玉こと桂昌院は、五十三歳になっていた。





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