その日、万は事情があって尾張徳川家の上屋敷へと赴いていた。明け方近くなり戻ってきて、西の丸で何やら変事がおこったという噂を耳にした。
かけつけてみると、そこには刺客の屍が横たわっている。ようやく目を覚ました楽の部屋方の者たちも、恐怖に震えていた。家綱より事の詳細を聞かされ、黒幕が玉らしいということを耳にし、万の表情が豹変した。
「うぬ! またしても玉か! こたびというこたびこそ、許すことはできぬ!」
万はただちに、その場にいた者全てに箝口令をしく。そして玉のもとへ、楽が刺客の襲撃を受け重傷を負ったので、見舞いに来るようにと使者をつかわした。
「それで、お楽殿だけか! 他に誰も傷ついてはおらぬのか!」
「されば刺客は家綱様の命を奪おうといたしました。しかし楽様が家綱様をかばい、刃の餌食となり、そのまま逃げ去ったとのことにございます」
「うぬ! しくじったか! 楽だけが死んでも仕方がない」
まだ寝間着姿の玉は、内心舌打ちした。すぐに着替えをすませると、西の丸へと足を運ぶ。もちろん罠だと知るよしもなかった。
西の丸へ到着すると、供の者は、中へ入ることを拒まれた。玉だけが入室を許された。
部屋の中では、なるほど楽らしい遺体が寝かされている。周辺では、部屋方の者たちが目頭をおさえていた。
「死んだのか……」
玉はこの部屋方時代からの宿敵の死に、内心ほくそえむも、どこか空虚さすら感じた。
「楽殿、これはまた、なんといたましい姿になられたことよ!」
玉は顔にかけられた白布をとった。そして、おもわず叫んでのけぞった。玉はこの時、幽霊より恐ろしいものを見てしまったのである。
「玉……そなたはまたしても過ちを犯したのう! 今日、私の手でそなたを処罰せねばならぬとは、思えば悲しい定めではあるな」
なんとそこに寝ていたのは楽ではなく、万だったのである。
「お許しを!」
玉は瞬時にして危険を察して、逃げようとさえした。しかしもう遅かった。突如として、泣いたふりをしていた楽の部屋方の者たちが、いっせいに玉に襲いかかったのである。
「そなた達なにをする! 私を誰だと思っておるのじゃ! 万様! あなたは一体どちらの味方なのですか」
玉の叫びも空しく、部屋方の者達は玉を何度も蹴とばし、のしかかり、ついには押さえつけて、布団でぐるぐる巻きにしてしまった。
「玉! いかにわらわとて、もはやこれ以上そなたをかばうことできなくなった。今わらわにできることは、上様に懇願して、そなたの一命だけは救ってもらうことだけじゃ!」
「鬼じゃ! 万様こそ地獄の鬼じゃ!」
玉は目に涙をためながら、万を怒らせてしまった自らを後悔した。
やがて御広敷にて、幕府の役人による、玉の取り調べがはじまった。玉は縄目の辱めをうけながらも、容疑に対して強く否定して、激しく反論した。
何しろ、刺客のいまわの際の一言しか証拠がないわけである。これでは玉を処罰するには無理があった。結局、玉は沙汰があるまで謹慎となった。
しかし万にしてみれば、間もなく玉のことだけに関わっていられない事態が勃発する。将軍家光が、病のため倒れ重篤となったのである。