「私は、あの子を守るためなら地獄の鬼にでもなる!」
玉の決意は悲壮だった。
すでに玉は、伊賀のくノ一で如月を楽の部屋に送りこんでいた。如月は楽の若い部屋方で多江の命を密かに奪い、巧妙に多江にばけて潜入していた。
その者をして、家綱と楽を西の丸ごと焼き殺す。恐らく、この間の事件のこともある。誰もが乱心した楽が火を放ったと思うだろう。如月自身が西の丸を脱出し、そのように証言する手筈である。
しかし、如月もまた悲壮だった。伊賀者こそ、苛酷な掟の中で生きている者も珍しい。主の命令は絶対である。その命で将軍だろうと、天皇だろうと、命を奪わなければならない時もある。そして目的をさまたげる者がいれば、仲間の伊賀者とて戦う。そして、命のやり取りをしなければならなかった。
如月は楽の部屋に潜入し、人の出入りや、他の部屋方のことなどを徹底的に探る。そして問題の家綱が、月に何度か楽の部屋を訪れ、共に一夜を過ごすことを知るにいたる。家綱は特に末尾に「四」のつく日に、楽の部屋に現れた。
こうして如月が、決行の日時を探っている最中のことだった。ある日、大奥総取締である万が、楽の見舞いのため部屋を訪れる。その際、如月は万と雑談する機会があった。如月には以前から不思議に思っていたことがあり、思いきって万に直に問うてみた。
「お方様は何故、その若さでお褥を辞退あそばし、子をもうけようとはせなんだのですか?」
すると万は、何事かを憂えるような目をした。
「私とて女じゃ。子を欲しいと思ったこともある。一時は上様との間に世継ぎをもうけたお楽様を、憎いと思ったこともある。なれどあれは確か、若君様がようやく物心ついた頃のことであったかのう……」
ある日万は、庭で草木とたわむれている、まだ竹千代だった頃の家綱を発見した。何をしているのかとたずねたところ、楽の病気を治すため、薬草をさがしているという。
この辺り一帯の草はみな雑草で、薬草にはならないと万がいうと、竹千代はしばしぶ然とした。
「俺が将軍になったら、日本国中の草木を調べさせ、必ず母上の病をなおしてみせる」
……しばし如月の表情がくもった。
「私はその時思ったのじゃ。このように心優しい若君こそ、ゆくゆくは天下万民に、幸福をもたらすのではないかとのう。それで私は自らも男児をもうけて、将来いらぬ世継ぎ争いの種をつくる愚はさけることにした。大奥取締まりとして、若君が健やかに成長できる環境を作ろうと、決心したわけじゃ」
万の言葉は、しばし如月の心を動揺させた。しかし忍びは非常にならなければならない。プロの工作員として、如月はあらゆる状況を想定しなければならなかった。
楽と若君の命を奪う際は、刃物を使用してはいけない。黒焦げ遺体とはいえ、刺し傷があれば、刺客の仕業だとわかってしまう。縄がいいだろう。
決行は風がない日に限る。風が強ければ最悪の場合、本丸や中の丸まで炎が及ぶかもしれない。
二人を殺した後、自ら火をつける。そして頃合いを見計らって、叫び声をあげ人を呼ぶ。これもタイミングを誤ると、自らも逃げ場を失い、炎上する城と運命を共にすることになりかねない。
はたして四月四日、普段は乳母の矢島と共に過ごしている家綱は、楽の部屋へやってきた。
この日は風もなかった。多江に化けた如月をはじめとして部屋方の者たちは二階で過ごし、一階には楽と家綱がいる。
如月は夜起き上がると、まず香を焚いた。香には睡眠作用があった。他の部屋方の者達は、明け方まで、例え火事がおきても起きることはない。
その上で如月は一階に降りて、縄を手にして家綱に忍びよる。家綱と楽は枕を並べて横になっている。いよいよ手をくだそうとした時のことだった。楽が寝言でもらした言葉が、如月を躊躇させた。
「家綱、ありがとう……」
再び如月の心に強い動揺がおこった。その時、家綱が目を覚ました。
「誰じゃ!」
如月は片膝をつき頭を下げた。
「お前は多江ではないか? このような夜更けにいかがいたしたのじゃ?」
「申しわけありませぬ。誠を申し上げます。私はさる人物を密命を受け、若君の命を頂戴しにまいった忍びにございます。なれど私には、若君の命を奪うことできませぬ!」
「何を申しておるのじゃ? そなた気は確かか?」
家綱が驚くのも無理はなかった。しかし次におこったことは、さらに家綱にとり信じられない事態だった。
「忍びは己が任務を遂行できない時は、取るべき道は一つしかありませぬ!」
そういうと如月は、自らの胸元を刃で刺し貫いた。
「しっかりせい! 一体誰が、そなたにわしを殺せと命じたのじゃ!」
如月の返り血を浴びた家綱が、顔面蒼白になりながら問う。すると如月はかすかに口を開く。
「玉……」
とだけ言った。
「玉! まことに玉がわしを殺せと命じたのか! 答えよ!」
だがすでに如月は絶命していた。