玉は下谷三味線掘のとある料亭へと連れていかれた。一見して高級料亭であることがすぐにわかった。店内に一歩足を踏み入れるやいなや、包丁を手にしていた料理人たちの顔色が、一瞬にして豹変した。
「店主に、わしが来たとすぐに申し伝えよ。それからあそこにおる女は、わしの連れじゃ。念のため申しておく。一言半句たりとも、わしの身分を明かすようなことを口にしたら、首がないものと思え」
と浪人者は、玉のほうに時々目をやりながら小声でいった。
やがて席につくと浪人はまず酒をたのむ。
「まだ名を聞いていなかったな。それからそなたまだ年は若いようだが幾つだ? 酒は飲めるか?」
「名は玉、年は十五でまだ酒は飲んだことがない」
「そうか残念だな。申し忘れたが、わしは山中新三郎と申す。十五ならそろそろ嫁の貰い手をさがさねばならぬな」
と新三郎は冗談をいう。この時代女の十五歳といえば、ちょうど結婚適齢期にあたった。
玉はざっと店内をみわたす。なるほど、この料亭を訪れる客は皆ことごとく身分が高そうである。恐らくこの新三郎という男も、浪人のふりをしているが実際はそれなりの身分なのだろう。
しかし玉とて一応、今は将軍側室につかえる身分である。大奥に仕える人間は一番最初に誓紙を書かされ、城の内のことを決して口外せぬよう、厳しく念をおされる。例え親兄弟であろうと、守秘義務は守らなければならない。そのため玉も、あまり大声で自らの身の上を明かさない。もし今、目の前の新三郎が知ったら、どのような顔をするだろうか……?
まあ所詮はお目見え以下の身分である。素性が卑しいということで、万が大奥の公式行事に参加する時でさえ、同道を許されてはいない。
さて料理の前にお茶が運ばれてきた。
「この香りは……?」
実に良い香りがする。何に誘われるのようなうるおしい香りである。
「良い香りがするであろう。これはのう、わしの母代わりが飲んでおったお茶の葉を、密かにに盗んできたものじゃ。六香散というて、明の国でしか栽培されないそうじゃ。ただし、あまり大量に香りを吸うと副作用がおこり、幻覚などの症状があるらしい」
と新三郎は少し怖い顔でいった。
この時、玉は新三郎に頼んで六香散を一袋ほどゆずりうけた。
やがて料理が運ばれてくる。まず赤貝の鍋焼き、次いで鶴の吸い物が登場した。
次の本膳がぼたん鍋、すなわち猪鍋である。ぼたんの名は、使われる猪肉を薄切りにし、牡丹の花に似せて皿の上に盛りつける事にちなんでいる。割り下に大量の醤油と砂糖を用い、さらに八丁味噌を加えて濃厚な味にしている。食べる際には、取り皿に生卵を入れてつけたり、薬味として山椒などをふりかけたりする。
しかし、やはり八百屋の娘である玉は、猪肉と共に煮られる野菜に強い関心をもった。ほうれん草、ネギ、豆腐、ごぼう等である。玉が青菜に強い関心をもっていることが、新三郎にも薄々つたわった。
「そういえばそなた先ほど、八百屋の娘だといっておったな。そなたの父、母はどういう人間であった? 兄弟、姉妹はおったか?」
「父のことは……あまり覚えていない。母のことも、今は思いだしたくない。姉がいたが遠くに奉公に出てしまった。もう会うこともないかもしれない」
と玉は、困ったような顔でいった。
「そうか、わしには弟が一人おった。わしなどよりはるかに利発でな、母上もわしより弟ばかりを可愛がっておったわい」
と新三郎は、なにやら思いつめたような様子でいう。
「そなたは知らぬかもしれぬが、兄弟などというものはな、なまじ血がつながっているゆえ、かえって厄介なものじゃ。人は時として、互いに違うからこそわかりあえるものじゃ」
思わず新三郎は、遠くを見るような目でいう。
ボタン鍋の後は、蜆(シジミ)の吸い物がでてきた。そして菓子としてきな粉をまぶした葛もち、さらには山いもも菓子としてでてきた。最後には数の子と共に酒もでてくる。まだ玉は飲めないが、新三郎はおおいに飲んでしたたかに酔った。