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【第二章】悲恋と旅立ち

 吉次が蘭の別れの手紙を読んでから一月ほどして、お網と吉次の婚儀が、浅草のとある寺でしめやかに行われた。蘭の父や母、幼い弟たちも式に参加することとなった。しかし蘭は心労からか体をこわして、店番のさなかに倒れてしまった。

「いいかお前はここで養生することだ。その方がお前のためだろ」

 式を前にして清宗は蘭にいったが、蘭は首を横にふった。

「もし仮に私が一生このままだったとしても、吉次さんには幸せになってほしい。姉には私の分まで吉次さんを愛してほしい」

「蘭、おまえという奴は……」

 清宗も、この娘には半ば驚きの色をうかべた。


 家族が長屋からいなくなり、蘭はしばし疲れたように床についていたが、やがて思いだしたように起き上がった。胸の痛みをもろともせず、二人の婚礼を一目見ようと寺にむかった。ところがその途上不幸はおこった。

 近くの武家屋敷の前を通りすぎようとした時だった。突如、屋根瓦が大量に落ちてきて、蘭の頭を直撃した。当時江戸は建設ラッシュの最中で、そのため突貫工事も多かった。ほこりが立ちのぼった後、そこには地にふした蘭の姿があった。

「いかん! これはいかん!」

 不意に侍たちが出現し、気を失った蘭をかかえていずこかへ姿を消した。彼らがむかったのは元老中・堀田正盛の浅草の下屋敷だった。あの春日局は正盛の外祖母にあたる。春日局は、蘭との初めての出会い以降、彼女に強い興味をもっていた。密かに正盛の家臣に命じて素性をさぐらせ、その行動を見張らせていたのである。


 次に目を覚ました時、蘭は布団に寝かされていた。目の前に頭を坊主にした医師らしき老人が立っていた。

「ここはどこなのです? 私は、私は一体……?」

 蘭はうつろな目で周囲を見渡しながらいった。おぼろげながら、屋根瓦が降ってきたところまでは思いだすことができた。

「何も案ずることはない。ここは堀田正盛様の下屋敷じゃ。そなたが倒れていたところを、堀田様の家来数名でここまで運んできたのじゃ」

「堀田様? なぜ私が堀田様の家来の方に助けられるのです? それよりも傷の具合は……私は助かるのですか?」

「頭の傷はたいしたものではありません。じきに治ります。ただしです。あなたは臓腑に他の病を患っておられる。残念ながら、そちらは我らの手にはおえませぬ」

 と医師が困った顔でいうので、蘭もまた、自らの運命を予期して顔色をかえた。

「まだ諦めるのは早うございますぞ。助かる道は他にありまする」

 障子が開き、どこかで聞いたことのある声がした。

「春日局様ではありませんか。なぜここに?」

「申し訳ないことと思いつつも、ここ一月、二月ほどの間そなたのことを調べておった。残念だが、こなたこのままではもう長くは生きられん。だが絶望するのはまだ早い。将軍につかえている奥医師ならば、そなたを助けられるやもしれん。将軍家光様も幼少のみぎりより体が弱く、幾度も大病をなさった。あの方は将軍家に生まれなければ、あれいは長く生きられぬ運命であったやもしれぬ。それでも今日あるは、この国でもっとも優れた匙(医師)の力があったればこそじゃ」

「私を将軍の奥医師にみせるのですか? そのようなこと恐れ多い……」

「ただしじゃ、それには条件がいる」

「……私が大奥に奉公するということですね。私には、そのような重い役割つとまりませぬ。第一私は罪人の娘でございます。私のような素性の者が大奥に出入りするなど、とてもできませぬ」

「そなたの素性は一通り調べさせてもらった。そのようなこと案じることはないぞ。なぜなら、わらわも罪人の娘だからじゃ」

 蘭は、しばし不思議そうな顔で春日局の顔をみた。

「そなたが将来を誓った男に裏切られて絶望する気持ちは、同じ女としてようわかる。なれどそなたように心の美しいおなごが、このまま朽ちていくのは実におしいことじゃ。こなたが大奥に入り、ゆくゆくは人もうらやむような身分になり、そなたを捨てた男や姉より幸せになればよいのじゃ」

「そのようなことまで調べたのですか?」

 蘭は思わず苦笑した。

 その日以来、将軍の奥医師を名のる人物が、じかに蘭の治療にあたった。蘭は半月もすると元気になった。もっとも不治の病というのは、春日局の真っ赤な偽りだった。実際は、そこいらの町医者でも簡単になおせるほどの病気だったのである。

 春日局は蘭は床についてる間に、蘭の家族が住む長屋に使者を送り、事の次第を告げた。もちろん蘭の大奥勤め件も相談した。

 やがて蘭は起きあがれるようになると、一旦長屋に戻り、家族との別れを惜しんだ後、旅立ちの日をむかえる。もちろん別れ際に姉の姿はない。吉次のことを思うと、やはり後ろ髪引かれる思いがする。

 こうして蘭は、江戸城大奥という未知の世界へと旅立つこととなる。そこは蘭が、今まで想像したこともないような世界だった。




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