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【第二章】姉妹(二)

 蘭は呉服屋を営みながら、長屋で母と二人目の父清宗、そして幼い弟三人と共にくらしている。生活は厳しい。

 特に蘭の母の紫は体が弱かった。この月も体調を崩して寝こんでしまい、蘭と姉のお網が必死に看病した。おかげで母は元気になったが、今度は蘭が看病つかれで体調を崩してしまう。そのため蘭は姉に店を休みたいと告げたが、お網は激怒した。

「なんですって! ちょっと体調が悪いくらいで店を休む! 今、生活が苦しいのわかっているわよね。あなただけじゃない。私も母の看病したのに、あなただけ休むってどういうこと?」

 結局この一件で、蘭は姉から半刻(およそ一時間)も説教されてしまう。自分の体調管理にも原因があるとはいえ、最近の姉は何かがおかしいような気がする。昔はもっと寛大だったはず……。

 ちなみに蘭と姉のお網は、実によく似ていた。だた姉は前にでるタイプの性格だったのに対して、蘭のほうは何事につけ消極的だった。お網は異性に対しても積極的で、蘭も幾度か噂を耳にしていた。男性とのこともあってか、お網は家族から離れ鳥越で一人暮らしをしている。この時蘭は、姉の体から不思議なお香の臭いがするのを敏感に察していた。

「もしかして、また好きな男性でもできたのだろうか?」

 蘭の予感は、不幸な形で的中することとなる。


 ようやく体調も回復した蘭は、吉次の勤めている常陸屋に、商売のことで出かけることになった。久方ぶりに吉次に会えると思い、うきうきした気分で常陸屋に赴いたが、吉次はいなかった。代わりにあまり見かけない、満月のように丸い顔をした中年女が、蘭との取次役として姿をあらわした。蘭はそれとなく吉次のことをたずねてみた。

「ああ吉次さんなら、好きな人でもできたようよ。美しく着飾った女性と、不忍池に行くのを見た人がいるそうね」

 上野不忍池は、その名がしめすとおり、江戸期には男女が密会する場所として有名だった。今でいえばホテル街にゆくようなものである。丸顔の女は、蘭と吉次の関係など知るよしもない。さらに蘭が問いつめると、相手の女性の正体がわかってしまった。それは蘭にとり信じられない人物だった。


 四日ほど後のことである。蘭は上野の山で吉次と会った。

 ちなみに上野は、今では春先には桜が満開に開花するが、この時代にはまだ桜は植えられていなかった。実は蘭の一人息子が、結局長く生きられなかった彼女の面影を慕って、上野に桜の木を植えたという。何を隠そうその一人息子こそ、徳川の四代将軍家綱であるわけである。蘭自身は、そのようなことは知るわけもなかった。そして彼女は、この時人生の大きなわかれ目にさしかかっていたのである。

 ゴーン、ゴーンと鐘の音が六度響きわたった。暮れ六つ(午後六時)を告げる鐘の音である。周囲は暗くなり始めていた。

 蘭は上野で吉次と会うと、いきなり抱きついた。

「おいおいどうしたんだ! 突然!」

 驚くと同時に、次の瞬間蘭の口から驚くべき言葉がとびだした。

「吉次さん、やはり噂はまことだったんですね?」

「なんのことだ?」

「あなたの体からは姉の臭いがします」

 蘭は今まで見せたこともない怖い顔になった。吉次は動揺し応答がしどろもどろになった。そう、吉次の密会の相手は、蘭の姉のお網だったのである。


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