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【第二章】姉妹(一)

 それから数日して蘭は幼馴染の吉次と久方ぶりに会い、墨田川を移動した。

 吉次が舟を漕ぎ、黒船町、諏訪町、駒形町とゆっくりと移動する。時節がら梅の花びらが水面に影を落とした。まるで時の流れが止まったように静かである。

「へえー! お前春日様に大奥に誘われたのか? たいしたもんだな!」

 吉次は思わず驚嘆の声をあげた。二人は同じ年である。そして常陸屋という名の呉服屋につとめている。古着屋の蘭とは広い意味で同業者でもあった。そして今となっては、半ば将来を誓いあう仲にまでなっていた。

「でも大奥って、やっぱ女ならあこがれるわよね。美しく着飾って、化粧して……」

 蘭はため息まじりにいう。

「やめとけよ、中ではいじめとかあるらしいぞ。本当かどうか知らないけど、新入りは新参舞いとかいって、裸おどりをやらされるらしいぞ」

 もちろん吉次には、今後ろに座っている蘭が、まだあどけない小娘にしか見えない。やがては大奥の頂点に君臨する姿などは想像もつかなかった。そして自らの後日の運命もまた、想像もつかないでいる。

「大丈夫よ、だって私こう見えても、いじめられるのには慣れてるから……」

 かすかに蘭の表情が悲し気になった。

 蘭は下野の都賀郡高島の生まれであった。蘭の父は下級武士だったが、当時禁猟となっていた鶴を鉄砲で殺した罪により死罪となった。その後のことは、はっきりとしたことはわからない。罪人の一族として、亡き父が仕えていた永井信濃守の「あがりもの」つまり奴隷の身分であったともいわれる。玉同様、後に将軍の母となるこの女性の出自もまた、実に卑しいものだったといわざるをえない。

 様々な紆余曲折の末、母・紫は古着商七沢清宗と再婚して、江戸に出てきたようである。世間体ということになると、地方より大都市の方が、人の目がゆきとどかないものである。これは今も昔も変わらない。それでも幼かった蘭は、罪人の娘として、近所の子供にいじめられることはやはりあった。

「でも吉次さんだけは、いつも私の味方をしてくれたわよね」

「なんだい急にあらたまって……」

 舟は浅草の広小路のあたりを過ぎて、そろそろ雷門である。いつもなら周囲を屋形船や遊覧船が行き交うが、不思議と今日はそれらに交差することもなく、二人のシルエットだけが水面にうかんでいた。

「私を、お嫁にもらってくださいな?」

 蘭は、はっきりといった。しばし両者の間に沈黙があった。

「できねえ相談だ」

「どうして?」

「俺はまだ独立して店を持てる身分じゃねえ。それに店の経営だって今苦しいんだ」

「ふーん、それじゃあ春日様と一緒に大奥に行こうかな?」

 蘭は半ばすねた様子でいった。またしても両者の間に沈黙があった。

「もっと私をしっかりつかまえていて……」

 蘭は内心そう思った。

「とにかくもう少し待ってくれ! まだ早すぎる」

 と吉次は困惑した様子でいった。

 蘭のプロポーズは失敗に終わった。だが吉次が蘭の誘いを断った理由は他にもあったのである。




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