江戸市中でも浅草の歴史は実に古い。特に浅草観音に至っては、その由来を推古天皇の三十六年(六二八)まで、さかのぼることができるという。源頼朝等、代々の武家の尊崇もあつく、江戸期以後は盛り場としてにぎわった。
金龍山浅草寺全図というものがあり、これを見ると江戸期の浅草のにぎわいが伝わってくる。浅草の象徴である雷門が中心にあり、手水舎、植木や盆栽などが商われている様が描かれている。そして門前町では浅草餅、羽二重団子の店舗、そば屋等が軒を並べているようである。
浅草のシンボル浅草寺は、檜前浜成・竹成兄弟と土師中知の三人を祀る神社である。地元の人びとは親しみをこめて「三社さま」と呼んでいた。浅草の春を象徴する祭礼「三社祭」は、鎌倉時代の正和元(一三一二)に、神輿を船にのせて隅田川を渡御した船祭を由来とするといわれる。
日程は四日間。初日は本社神輿御霊入れの儀がおもな行事で、二日目に「びんざさら舞」と呼ばれる田楽が奉納される。三日目に浅草中の神輿が浅草各町を渡御し、最終日には担ぎ手と観衆の熱気に包まれた。
春日局が浅草寺に参詣した寛永十七年(一六四〇)の春、ちょうどこの三社祭りの最終日だった。祭りの熱気から多少の目まいを覚えた春日局は、供の者たちを先に帰し、浅草寺近くの茶店の前で一服つくこととした。古着屋を営むお蘭(後のお楽)という十九歳の娘と、運命の出会いをはたすのはそのおりのことだった。
古着屋のお蘭は、その日は店番もない。茶店の前でたまたま春日局の隣に座って、うららかな春の日を楽しんでいた。
やはりお蘭は古着屋だけあって、春日局の衣装に目がいく。どうやら絹の生地のようである。恐らく位の高い、どこぞの大名家に勤めている奥女中といったところであろうか? しばらく春日局は何事か物思いにふけっていたが、やがて、ふと我に戻って立ちあがった。その時だった。不覚にも茶碗をひっくりかえし、蘭の小袖をぬらした。
「これは失礼した」
春日局はまず謝罪した。
「詫びといってはなんだが……」
といって金子は入っている袋を渡した。蘭は中身を見て、その額の多さに仰天した。
「お待ちくださいお婆様! このようなものは受け取れません!」
蘭は驚き、金子を返そうとする。しばらく返す、返さぬの押し問答が続く。結局春日局が蘭に、茶をおごるということで話しは成立した。
「お婆様、先ほどから何を考えていらっしゃったのですか?」
蘭は改めて老女に訪ねてみた。
「いや何たいしたことではない。徳川の世が、いつまで続くのかとふと思ったのじゃ」
と春日局は、ぼそりといった。
「徳川幕府は東照神君様が、かの関ヶ原の戦いに勝利して成立した。なれどあの戦のおり小早川が寝返らなんだら、どうなっていたじゃろう? 今頃わらわも、ここでゆっくり茶を楽しむゆとりもなかったのではと、ふと考えたのじゃ」
「なれどお婆様、私は下野(現在の栃木県)の生まれですが、亡くなった父が申しておりました。この坂東の地は、日の本でもっとも土地が広く豊かであると。徳川は二百五十万石、実は太閤様がこの地を権現様にお与えになった時、すでに徳川の天下は約束されていたのではありませんか? 関ヶ原で負けても、多少時間はかかりますが、徳川の天下は変わらなかったのでは?」
春日局は、瞬時鋭い目を蘭にむけた。
「そなた時はいくつになる?」
「十九になります」
「うぬ、この年代の娘にしては面白いことをいう」
春日局は内心驚きながら思った。艶のある黒い髪、長いまつ毛で飾られた清らかなな眼差し、柔らかな白い肌、痩せてはいるがふっくらとした胸元、そして猫をおもわせるしなやかな肉体。容姿も悪くないと思った。衣装は、水仙の花にアゲハ蝶が止まる光景を描いた柄の小袖のようである。水仙には毒があるというが、古着屋だけあって中々こった衣装である。
「実はのう、わらわは大奥総取締りで年寄・春日局と申す。こなた存じておるか?」
春日局の名を聞いて、蘭は瞬時にして青くなった。
「これは春日局様でありましたか! とんだ無礼を!」
なにしろ当時、江戸市中で春日局を名を知らぬ者はいない。将軍家光はもちろん頭が上がらなかったし、幕閣の面々の多くが、春日局の息のかかったものばかりである。俗に大奥の年寄は表の老中に匹敵するというが、まこと春日局にいたっては、表の世界にも十分すぎるほど顔がきいた。
「いやよいのじゃ、それより実はそなたに頼みたいことがあってのう」
「何でございますか?」
「こなた、これよりわらわと共に江戸城大奥に赴いて、将軍に奉公するつもりはないか? こなたの器量なら、もしやしたら家光様の目にとまって、将軍の生母も夢ではないぞ」
蘭は再び驚き顔色を変えた。
「とんでもない話でござりまする。私に大奥などつとまりません! どうかご容赦ください!」
蘭は固辞してその場を立ちさった。当時の大奥は女性たちにとり、まさにあこがれの就職先であった。今でいえば一流企業に就職するようなものである。例え将軍の目にとまらなくても、大奥で数年勤めれば、嫁ぎ先などは引く手数多だったという。