数日して将軍家光は、はじめて夜の相手として万を指名した。普段、将軍は江戸城本丸の中奥で過ごす。大奥で正室や側室と夜を共にする時は、あらかじめ相手の名前を御伽坊主に告げる。御伽坊主とは、中奥と大奥の取次役である。その夜、万は数名の御中臈と共に上御鈴廊下の方角に消えていった。
玉にしてみればその光景は、まるで己がおとぎ話の中にでもいるようであった。万を取り囲んでいる中臈たちは実は狐で、己は化かされているのではと一瞬勘ぐったほどである。万の姿が消えた時、玉に残されたものは一種の虚脱感だけだった。
お万が連れていかれた先は、大奥の御小座敷といわれる場所だった。そこには厚さ五、六寸もある布団が二枚重ねられており、掛け布団も五枚もあった。
お万はここでだいぶ待たされたが、ついに将軍が姿を現わした。
「万にござります。以後、お見知りおきを……」
万は、まず手をついて挨拶をした。
「そなた震えておるな?」
それが将軍の第一声だった。しばし沈黙があった。
「無理もない。そなたを尼寺から引きはなし、この江戸城に身をおくよう仕向けたのは、他の誰でもない余じゃ。まずはそなたにわびたい」
お万は顔を上げて、天下の将軍の顔を目の前でまじまじと見た。
「わしはもともと女に興味がなかった。そのわしがそなたを初めてみた時、心を揺さぶられた。そしてこの前の琴を奏でる様子を見て思った。そなたはわしが初めて知った宝のような女子(おなご)であるとな。どうかわしのわがままを聞いて、この大奥にいてはくれぬか?」
将軍は万の手をとり言った。万はその手をふりほどき将軍に背をむけた。
「言葉では伝わらない思いもござりまする。あの琴の音で、私の思いが……わずかでも上様におわかりいただければと……」
しばし将軍は、お万の哀しげな瞳を見つめながら沈黙する。
「私は、全てと引き離され上様に身を捧げるのです」
「わかった、もうそれ以上申すな」
その夜、両者にとり激しい夜となった。なにしろお万は処女、大奥の言葉でいえば「お清」だったのである。一方の将軍も女性の経験が極めてとぼしい。互いにまるで要領をえないまま時間だけが過ぎた。そのため全てが終わる頃には、万も将軍もくたびれ果て、息が荒くなっていた。
万の髪は激しく乱れた。やがて起きあがると将軍の股の間に膝を入れる。そのままのしかかり、福やかな胸が将軍の目、鼻、口をふさいだ。
将軍はしばし呼吸すら困難となる。しかし時を置かずして、足のつま先から脳天まで、一気に官能がつきぬけた。
「私が必ずや子を産んでごらんにいれます。これだけは御約束ください。側室はどうか私だけと……。もし他の女を愛し、私を忘れるようなことがあらば、私は鬼とも蛇ともなりましょう」
こうして万にとり最初の夜が終わった。しかし万の思いとは裏腹に、この時すでに春日局は、次の側室となる女を探していたのだった。