二月の初午の日、お目見え以上の大奥の女中たちがそろって、大奥内庭にある吾妻稲荷神社に参拝する。将軍も参拝する。特に午後は、御三の間の女中たちなどが踊りや茶番、狂言などを演じた。
ようやく日も暮れた頃、お万が姿をあらわした。万は水浴びする仙女をイメージしたであろう柄の打掛を着ていた。中々奇抜な柄である。
「まだ未熟ではござりますが、私が琴など奏でてみたいと存じます」
といって将軍に一礼した。将軍は神社の本殿を前にし小豆餅を食べながら、上機嫌で酒など飲んでいた。石段の下で、お万は琴を奏ではじめる。指先が琴に触れた瞬間、将軍には風の流れが変わったように思えた。
座の空気も一変し、先ほどまでおしゃべりに興じていた女中たちも、瞬時に沈黙した。万は琴を奏でながら、中国唐の時代の玄宗と楊貴妃のロマンスを題材にした「長恨歌」を歌った。
漢皇重色思傾国
御宇多年求不得
楊家有女初長成
養在深閨人未識
(漢の皇帝は女色を重視し絶世美女を望んでいた 天下統治の間長年に渡り求めていたが得られなかった。楊家にようやく一人前になる娘がいた。深窓の令嬢として育てられ、誰にも知られていない)
物語は玄宗と楊貴妃の出会いから始まり、やがて楊貴妃は後宮の三千人の美女たちをさしおいて、その寵愛を一身に受ける場面となる。
後宮佳麗三千人
三千寵愛在一身
金屋粧成嬌侍夜
玉楼宴罷酔和春
しかし琴を奏でながらも、お万の胸中には別の思いが去来していた。あの日、将軍の手の者によって自由を奪われ、半ば無理やり江戸城に拘禁された時の悔しさ。もしやしたら、二度と戻ることがないかもしれない都の風景……。
小雨が降りはじめた。松明の炎が消え、周囲は薄暗闇になった。お万はかすかに涙したが、小刻みに降り続ける雨と闇のため、誰も気づくことはなかった。やがて物語は、玄宗と楊貴妃の悲しい別れで終焉をむかえる。
在天願作比翼鳥
在地願為連理枝
天長地久有時尽
此恨綿綿無絶期
(天にあっては、願わくは比翼の鳥となり 地にあっては、願わくは連理の枝となりたい。天地はいつまでも変わらないが、いつかは尽きる時がある。しかしこの悲しみは綿々と、いつまでも絶えることがないだろう)
見事な琴の演奏である。さすがの春日局もうなった。
「素晴らしい琴であった。お万誉めてとらすぞ」
「ありがたいお言葉、感謝いたしまする」
お万は頭を下げる。しかし春日局は複雑な心境でこの光景に見入った。