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【第二章】初夜(二)

 さて万は、ようやく大奥女中の女子寮とでもいうべき長局に、自分の部屋を与えられた。そこで玉と、他に新たに雇われた部屋方といわれる使用人と過ごすこととなった。

 身分の高い大奥女中の部屋は二階構造になっており、押入れ、囲炉裏、物置、物干し台などがそろっていた。上の階には玉をはじめとして部屋子たちが居住し、下の階が万の生活空間だった。

 いかにも公家の出身らしく、万は部屋全体を源氏物語の絵巻物で飾る。そこで気をまぎらわすため、日夜琴を弾く。根っからの武家の出自で、自らも槍や薙刀にさえ長じている春日局にしてみれば、どうにも虫が好かない。

「お万様、お万様が夜になっても琴を奏でるので、その音がうるさいと苦情がありましたぞ。また、お万様は武家の大将の元に側室として上がるのです。その御覚悟をもってもらわねば困ります」

 ある日たまりかねた春日局は、万の部屋を訪問して、はっきりといった。

「それでは武家の覚悟とは、いかなるものでありますか?」

 その時、春日局は眼光を鋭くした。

「きぇぇぇぇいいいいい!」

 という不気味な叫びと共に、薙刀で人を刺す様をまねてみせた。

 万の額に再び脂汗が光り、後ろにひかえていた玉もまた困惑した。

「徳川は、天下泰平の世を築くため幕府を開いたのではありませぬか? それなのに誰と戦するというのですか?」

 お万は半ばうんざりした様子でいった。

「お言葉なれど、公家には公家の生活のしきたりがございます。何もかも武家の方式にというは、あまりに無茶な話」

 言葉をはさんだのは玉だった。

「そなたは黙っておれ!」

 春日局は声を荒げた。

「もしお万様が子をさずかったならば、その御子は将来将軍として、武家の頂点に君臨することになるやもしれませぬ。当然、武家の頭として凛々しく育ってもらわねばなりませぬ。母であるそなたが、かようなことでは困ります」

 春日局は厳しくいう。

「なるほど、ここは武家の家。なれど私は、槍をもって敵を倒すことはできませぬ。私にできることといえば、上様を癒してさしあげることくらいです。だからこそ私は琴を奏でるのです」

 万はしばし、挑むような目で春日局にいった。

「それでは私と賭けをいたしませぬか」

「賭けとは何でございますか?」

「二月の初午の際、お万様には上様の前で自慢の琴を披露していただきたい。もし上様が心から満足いたしたなら、万様がここで、公家の文化に浸ることも許すことといたしましょう」

 そこまでいうと春日局は、万の返事を待つまでもなく打掛をひるがえし、立ち去ってしまった。春日局は甘く見ていた。幾度か万の琴の音を耳にしたが、あの程度では将軍を満足させるには至らぬと思っていたのである。


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