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【第二章】初夜

 寛永十七年(一六四〇)の正月をむかえた。ようやく髪も長くなったお万は、将軍への形式的な挨拶をすませた。そしてその後、江戸城中の丸に家光の正室鷹司孝子を訪ねる。

 孝子は三十八歳、京都の公家の名門鷹司家の出身である。十六年前に嫁いできたが、家光との男女の関係はほぼ皆無であり、事実上の絶縁関係といっていい。

「表を上げい」

 孝子の言葉で、お万は初めて将軍正室の顔を見た。

「なるほど、これでは冷遇されるわけだ……」

 と万は密かに、納得する思いがした。

 色白でおよそ健康的ではなく、女としての色気も伝わってこなかった。そのくせプライドだけは高そうに思える。正月ということで髪は、おすべらかしに結い、十二単に身をつつんでいる。

「汝か? 仏門に入っていたものを無理やり還俗させられ、あの将軍の慰みものにされる定めの女というのは?」

 孝子は皮肉まじりにいう。

「こなたは伊勢からまいったそうだな。また聞くところによると源氏物語を好むとか……。ならばこの句を知っておるか?」

 孝子は短冊に何事かを書き記し、万に投げてよこした。


 暁の別れをいつも露けきを こは世を知らぬ秋の空かな


 万の額に脂汗が光った。源氏物語は主人公である光源氏と、女性たちの恋の物語である。かっての光源氏の愛人であった六条御息所は、光源氏の愛もさめ冷遇されていた。

 光源氏の寵愛を受け、子を身ごもった葵上に生霊となってとり憑き、ついには葵上をその子もろとも呪い殺してしまう。ほどなく六条御息所は伊勢へと追放されるが、その時によんだ別れの句だという。

「ほほほ、たわむれじゃ。わらわは別にそなたを呪い殺すわけでも、取って食うわけでもない」

 孝子は万が動揺する様を、さも面白そうに笑った。

「まあ女嫌いのあの方が、是非にと望んだのじゃ。よほどこなたに惚れたのであろうのう」

「女嫌い?」

 万は不思議そうな顔をした。

「その様子だと何も聞いておらぬのか?」

 この後孝子が語った内容は、万にとり実に信じられない話しだった。

 なんと家光は、女嫌いの男色家だというのである。もちろん相手が男では将軍家に世継ぎの誕生はありえない。春日局も幕閣の人間も困りはてていたところに、将軍が尼僧姿のお万に興味をもった。春日局があれほどの強行手段にでてまで、お万を還俗させ大奥にとどめた背景には、家光の男色があったわけである。


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