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【第二章】尼君受難(二)

 この時の周恵は、いつか朝廷と幕府のもめ事の元となった紫衣を着ていた。金襴の袈裟、水晶の数珠を手にした細く、透き通るかのような指。まだ十六と幼いが妖しい、そしてどこか奇妙な色気を感じさせる。いやむしろ幼さが、男を誘惑する何かを引きだしていたのかもしれない。

 幕閣の面々が居並ぶ中、

「上様の御成り!」

 という甲高い声がした。

 将軍家光は白書院上段の間に、簾ごしに姿を現わした。それは周恵にとり、終生忘れられない光景となった。慶光院は准門跡寺であるため、大名並みに上段の次の間の中ほどに座を与えられていた。

「その方表を上げい!」

「これが天下の将軍様か?」

 周恵が初めて見た将軍家光は、三十六歳と聞いていた年齢よりは、なぜか幼く見えた。徐々ではあるが家光の顔が興奮で上気するのを、かたわらに控える春日局は見逃さなかった。

 この時、将軍の脳裏をよぎったものは、このまだ幼い尼が、僧衣のまま男にもてあそばれ、激しく乱れる様だったのである。

「そなた年はいくつになる?」

「十六になりまする」

 将軍の声が上ずっていた。

「その年齢で寺で修行はさぞ厳しかろう。そなたほどの年齢なら、まだ他にやりたいこと望むこと山ほどあろうに……」

「いいえ私どもは、御仏に終生捧げることになんの悔いもござりません。今はただただ天下万民の幸福のため、日々祈るのみでござりまする」

 と周恵は型通りの挨拶をした。もちろんさすがの周恵も、将軍の言葉を深読みすることはまだできない。

「先年はキリシタン共が九州で乱をおこし、鎮圧に大変な犠牲をはらった。我が国の人心のよりどころは、なんといっても仏教でなくてはならぬ」

 徳川幕藩体制を根底から揺さぶった有名な天草島原の乱は、寛永十五年のことだった。これをきっかけに幕府は、ポルトガル船の行き来を禁止し、以後二百年にわたって鎖国体制を堅持していくのである。

 謁見は無事終了したかにおもえた。しかしこの時すでに、信じられない事態は進行していた。


 周恵と玉それに供の尼僧たちは、その夜、幕府が手配した寺に宿泊した。ところが日付がかわろうかという頃、頭から鉢巻をして、片手に薙刀を持った女たちにより寺は包囲されてしまう。その中心に春日局がいた。

「一体これは何事でござりますか?」

 さすがの周恵も真っ青になった。

「上様が上人様を所望されておりまする。天下の上様が是非にとのことなれば、実に名誉なことにござりまする。城にお迎えするためまかりこしました」

 春日局は表面は穏やかだが、言葉の端々に将軍家の権威をちらつかせながらいった。玉にも周恵にも、一体何がおこっているのか、まだはっきりと把握できなかった。こうして問答無用で、二人の江戸での生活が始まるわけである。


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