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【第一章】青白い炎

 寛永十六年(一六三九)年の七月下旬、玉は生まれ育った京の都を後にする。そして、二度と戻ることはなかったのである。

 当時公卿などというものは、例え由緒ある家柄であっても、そうとう窮乏していた。姫君であるはずの満子の旅立ちといっても、従う者は玉を含めて、わずか十数名というわびしさであった。満子はもちろん輿でゆく。玉は徒歩での長い道のりだった。

 生まれ育った地を後にするといっても、玉には、さしてそれほどの実感もなかった。事の重大さを悟りはじめるのは、一行がようやく近江の国にさしかかる頃だった。

「何やこれは……?」

 一面殺伐とした風景。そこには諸国から集い、軒を並べる商人たちの姿もない。寺社仏閣もない。美しく着飾り、街をねり歩く舞子や芸者の姿もなかった。生まれてこの方京以外を知らぬ玉にとり、それは驚きであり、不安以外のなにものでもなかった。

「ほんまに大丈夫やろか?」

 道も都の大通りのように整備されてはいない。ちなみ徳川幕府は、三百年かけて諸国の道路網の整備に力をいれ続けた。というより、日本国中の大名が江戸を目指す参勤交代という制度が、道路網の整備に影響したといえるだろう。

 しかし江戸初期のこの時代は、まだそこまで整備されておらず、旅人が泊まる宿なども存在しない。野宿か、もしくは近在の寺に宿泊するより他なかった。一行は幸運にして、途中山賊に遭遇するなどのアクシデントもなく、三日目には伊勢の国へと入ることとなる。



 清らかな五十鈴川の流れが、長旅の疲れをいやしてくれた。玉と満子は、ようやく伊勢の国へ至り伊勢神宮に参詣する。 

 伊勢神宮は内宮と外宮という二つの世界にわかれており、外宮は五穀をつかさどる豊受大御神を祀っている。そして内宮は、属に八百万の神がいるという我国おいて、最高神の天照大神を祀っていた。両方あわせれば、今日の感覚で世田谷区ほどの広さとなる。いわば一つの都市がそのまま神域といっていい。

 玉と満子は五十鈴川にかかる宇治橋をわたり、しばし玉砂利を敷かれた参道を進む。やがて火除け橋を渡ると第一鳥居が見えてきた。さらにしばらく進むと第二鳥居へと至る。神楽殿、五丈殿、御酒殿と続き、まもなく天照大神のおわす本殿が見えてくる。

「これが伊勢神宮? はるか昔に建造されたわりには、ずいぶんと建物は新しいんやな?」

 玉は不思議な顔をした。

「玉、実はこの本殿はな、十一年前に建てかえられたんよ」

 伊勢神宮は内宮、外宮とも二十年ごとに建て替えがおこなわれる。これを式年遷宮という。およそ八百年にわたって連綿と続けられてきたが、戦国の世となり、それもついには途絶え伊勢神宮は荒廃した。

 そこで再興に立ち上がったのが、これから満子が世話になる慶光院三代目の住職清順だった。諸国をめぐって勧進をおこない、ようやくにして遷宮を実現させたわけである。

 玉は伊勢神宮の本殿を目のあたりにしながら、己に宿っていたらしい蛇の精霊の言葉を思いだしていた。己には神仏や森羅万象が味方するという。自ら神仏を崇め、そして自らもいずれ崇められるような人間になりたい。しかし、そのためには今目の前にいる満子を、越えなければならないような気がしてならなかった。

 しかし越えた先には、あの蛇の精霊がいうように、破滅が待っているのだろうか? その答えはまだ玉にはわからなかったのである。









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