この年、まず満子の母妙子が三十七歳で他界する。これをきっかけに、妙子の実家戸田家からの莫大な仕送りは消滅した。経済的に苦しくなった六條家では、玉と満子をこれまで通り養う余裕はなくなった。
「実はのう玉、そなたには実家のほうで縁談がもちあがっておるのじゃ。そなたの姉が奉公にあがった日野家につかえておる者じゃ。決して悪くない話だとは思うが……」
と当主の有純は扇子であおりながらいう。
玉は驚くと同時に、かたわらに控える満子の顔を見た。
「満子様は、この先どうなるのでございましょう」
「満子なら尼寺に赴くこととなった。伊勢の慶光院という、由緒正しき寺の七代目院主をつとめることとなったのだ」
玉はしばし沈黙した。
「どうした? そなた喜ばないのか?」
「いえ、ただ私にとって事があまりにも重要なので、しばし考えさせてもらってもかまいませんか?」
そういって、玉は有純のもとを退いた。
この頃、玉の満子を見る目は、羨望のまなざしへと変わっていた。別れをおしんで玉は苦悩した。そしてある夢を見た。
玉が薄目を開くと、そこに青白い顔をした女が立っていた。
「そなたは誰じゃ?」
玉は思わず問うた。
「我は、そなたの心に宿る白蛇の化身である。名はナータージャという。ほどなくそなたは都の外にでる身である。残念ながら私の力では、都の外に出でて魂を保つことができぬ故、別れをつげようと思ってな……」
「別れとは……?」
「我はこれ以上汝と共にゆくことはできぬ。なれど恐れることはない。汝は生まれながらに、神仏やこの国の森羅万象を引きつける強い力を宿しておる。汝なら必ず、汝の使命をまっとうすることができるであろう」
「わからん? 私の使命とはいかなるものなのだ?」
玉はおもわず不思議な顔をした。
「そなたの主を守りとおすこと、それだけじゃ」
ナータージャは、満子のことをいっているのだろう。
「それだけか?」
玉は満子に畏敬の念をいだいてはいた。だが自らの生涯が、それだけで終わることには納得がゆかなかった。
「そなたの主には我が姉の魂が宿っている。そしてさる高貴な方に嫁ぐ運命をもった女人である」
「私は、私はどうなのじゃ? それに高貴な方とは何者?」
「いずれわかることだ。そしてそなたの天命は、そなたの主に危険が及べば、自らの命を犠牲にしてでも守りぬくこと以外にない。汝はしょせん、そなたの主の影にすぎないのだ」
玉は露骨に、不服従の表情をうかべる。
「汝が主にいだいている感情、それは一種の恋だ。だがしょせんそれは実らぬものじゃ。やがてそれは嫉妬となり憎悪となる。あれいは満子と汝は敵味方になる時も来るやもしれぬ。その時はあえて道をゆずるのだ。それが影の宿命。いらぬ野心を抱けば、神仏も森羅万象も汝に味方しなくなり、そして身の破滅じゃ。そのこと決してわすれるでないぞ」
……玉は六條家のお屋敷で、ようやく夢からさめた。闇の中、隣で満子が寝息をたてていた。ナタージャの魂は消えたが、その胸中には、強い決意のようなものが宿っていたのである。
翌日、玉は満子の見守る前で、有純にはっきりと自分の決意したことを伝える。
「縁談の件はお断りいたします」
「それでは、そなた今後どうするつもりじゃ?」
「私はいつまでも、どこまででも満子様についてゆきとうございます」
「しかし満子についてゆくということは、この京を捨て、俗世をも捨てるということなのじゃぞ。こなたにその覚悟はあるのか?」
有純は餅を食いながらも、困惑の色を浮かべた。
「そうじゃ玉、何もそこまでせずとも……」
と満子もまた困惑する。
「お供がかなわぬと申されるなら、私はすぐにでも自害いたしまする!」
と玉はきっぱりといってのけた。こうして玉は、満子と一蓮托生の道を選択したのだった。