目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
【第一章】少女の頃(一)

 玉が生まれた寛永四年(一六二七)、朝廷と幕府の関係は紫衣事件でぎくしゃくしていた。

 この時代の僧侶にとり、紫衣は最高位の高僧のみの栄誉であり、朝廷の許可なくば袖を通すことは許されなかった。ところが朝廷や寺社に対する圧力を強めていた幕府は、元和元年以降の朝廷による紫衣勅許を全て取り消すよう、時の後水尾天皇に迫った。昨今の寺社の風紀の乱れを正すというのが、その名目だった。

 およそ八十枚もの紫衣勅許が無効となり、諸山諸寺の混乱はもとより、後水尾天皇もまた幕府に対して憎悪の感情を持つにいたる。

 さらに寛永四年(一六二七)、またしても後水尾天皇を憤激させる事件がおこる。三代将軍家光の乳母で福すなわち後の春日局が、無位無官の身でありながら御所にあがり、後水尾天皇の尊顔を拝したのである。

 天皇の幕府に対する怒りは我慢の限界となり、とうとうまだ五歳の第二皇女・女一宮に譲位してしまう。これが明正天皇である。明正天皇は二代将軍秀忠の孫で、現将軍家光からしても姪にあたる。なんと奈良期の称徳天皇以来八五九年ぶりの女性天皇の誕生であった。



 さて、お玉は思えば肉親の情の薄い少女であった。

 父親(?)の野菜売り仁右衛門は、ひたむきで実直な男だった。おくるが方々で男に色目を使っている間にも、それを知ってか知らずか、幼い玉の子守りをしながらけんめいに働いた。ところが玉がようやく一歳になる頃、屋敷が火事で焼けてしまう。

「中にはあの人と玉が!」

 野次馬が騒ぎたてる中、たまたま戻ってきたおくるは錯乱寸前となった。このとき仁右衛門は、炎の中から赤子を抱いて姿を現した。

 玉は大事なかったが、よほど赤子をかばったのか仁右衛門は、背中に大火傷を負っていた。結局この火傷が原因で、仁右衛門は命を落とすこととなる。

「玉がさえ無事なら、俺はどうなってもかまわないさ……」

 死を目前にして、仁右衛門はおくるの手を握りながらいう。

「最後に一つだけ聞かせてくれ。玉は本当に俺の子か?」

 おくるはしばし沈黙した後、涙ながらに頷いた。

「そうか……おまえにはつらい思いをさせた。玉のことは頼んだぞ」

 ほどなく仁右衛門は五十二年の生涯を閉じた。もしまことに玉が仁右衛門の子なら、この気の毒な男の孫は五代将軍ということになってしまうが、そのようなことを知るはずもなかった。




この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?