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 肩をいからせて廊下を行く杏子の前に、イズミは滑り込んだ。

「お待ちください、杏子様。どうかお戻りを」

「どいて、イズミ。私は戻らない。あんな滅茶苦茶な話聞いてられないよ」

 杏子はイズミの肩を横に押しやり、また歩き出す。

「ですがっ! 疑われてしまいます」

「……なぁに?」

 ロングスカートを翻し、杏子は振り返った。「疑われるって、私が?」

 冷笑する杏子に相対し、イズミは汗を滲ませて緊張した口を開く。

「里来様のおっしゃることがすべて正しいとは思いません。しかし、すべてが間違ってはいない……。皆様、少なからず疑惑を抱いているのです。東郷様の件だけじゃありません。幸一様やチトセのことも、皆口に出さないだけで、何かしら不可解には思っているのです」

 ここでイズミは息を吸い、目の前の女の眼鏡の奥をしっかりと見据えた。

「そんな状況でさっきのように激昂し、さらに皆様の前から〝お逃げになる〟ならば、杏子様の印象が悪くなります。激情のままに椅子など蹴られれば、そういう乱暴な人間だと思われてしまいます」

「私は逃げるわけじゃないし、後ろめたいことも何もないよ」

「でしたらお戻りください。このような状況で、協調性の無いのは〝悪〟なのです。ただもうしばらくあの椅子に座っているだけでいいのです……」

「……優しいね」

 ロングスカートの下のサンダルがゆっくり動き、近づいてくる。自分の靴先に杏子のサンダルの先がこつんと当たるのが、感覚でわかる。

 しなやかな手が、イズミの頬に添えられた。

「ホント、優秀な子だ」

 視線が絡み、イズミは息を呑む。

「ありがとう。言いたいことはわかるよ。でも私にも意地がある。あんな啖呵(たんか)切って出てきたからには、すぐには戻れないんだよね。文哉のとこへ行くよ。様子を見てくる。みんなにはそう伝えて」

 するりと指先を離し、杏子は踵を返す。イズミは躰を硬直させたまま、

「……はい」

 それ以上は引き止められず、畏(かしこ)まった一礼で、遠ざかる背を見送った。


   ◆


 右手で壁を伝いながら巨大階段を下へ。踊り場を右に曲がるころには暗闇に目が慣れて、次の段がうっすらと見えてくる。

 アーチ型の古びた木製扉には鍵が掛かっていた。それを内側から開けてもらうべく、軽く握った手の甲で、コン、コン、コン。それで駄目なら、扉脇の小さなボタンを指先でそっと押す。

 チュン、チュン、チュン。扉の奥で雀の鳴き声が響く。ほどなくして、

「誰だ」

「私だよ、文哉。……やっぱりここにいた」

 柔らかく女性らしい声で、杏子は言った。

「今開ける」

 と文哉の静かな声。

 この扉の鍵は古風なつくりのままで、外からも中からも鍵が無ければ開けられない。鍵穴は向こうまで貫通し、覗き込めばてるてる坊主の形に切り取られた世界が見える。

 かちゃり、と軽い音が響き、続いて扉が軋みながら開く。

「やぁ、なんだい?」

 無理につくった彼の微笑みは、今にも崩壊しそうに危うい。

「ちょっと心配で。朝食に来なかったから」

「食べる気がしなくてね。やっぱり、どうにも」

「わかるよそれは。……ねぇ、入っていい?」

「ああもちろん」

 人一人分開いた扉の隙間から杏子は躰を滑り込ませる。

 地下庭園は美しい。純な酸素を吐き出す草木。目を喜ばす色鮮やかな花々。春の陽射しを模した照明。マイナスイオンの立ちのぼる石膏造りの噴水。壁に描かれた絵のおかげで、庭はどこまでも果てしなく続いて見える。

「夜からずっと、ここにいるの?」

「ああ」

「楽園はあなたを癒してくれた?」

「……わからないな」

 庭園の中央へ続く小道を歩いていくと、途中から蔓(つる)薔薇のトンネルに包まれる。緑の蔓の中に点在する薔薇。赤、桃、白と変化し、また赤、桃、白……。

「大事な人を失うとこんなにも自分は弱いのかと……思い知ったよ」

「うん。そうだよね」

「もっと、東郷と話せばよかった」

「うん、私も……」

「惚気話だって、ちゃんと聞いてやればよかった」

「綺麗な人なんだってね、マリアさん。私はあんまり彼女のこと知らなかったなぁ……」

 薔薇のトンネルの向こうに、西洋風の東屋が見える。ドーム型のガラス屋根には蔓の這うような装飾がなされ、そこから五本の白大理石の脚が伸びている。その脚の間を平たい大理石版が繋ぎ、椅子のようになっているところへ、杏子は黙って腰を下ろした。

「あなたが造った、〝彼女たちの楽園〟……ここは綺麗だね」

 文哉は杏子の斜め向かいに、ドームの外側を向いて座る。

「ああ、綺麗だ。けれど私はこの一晩で気づいてしまった。……ここは〝私の楽園〟ではない」

「どういうこと」

「私の安らぎはすぐ近くにあったということだよ。こんな遠くまで来なくともね。どこにいるかは重要ではなかった。誰といるかこそが楽園の条件だったんだ。なのに私は金にものをいわせて〝目に見える、形のある、わかりやすい楽園〟をこの地につくろうとした。東郷のことは代償だ、神の御業を真似ようとした……」

「文哉、あなたのせいじゃない。あなたが……仕事のストレスで、もうだいぶ前から人間不信になっていたことは、私も里来も東郷も気づいていたよ。気づいていたけど私たちには、こうして一年のうちの一か月、この島であなたと一緒に過ごすことぐらいしかできなかった。ごめんね。……あなたはここを楽園として憧れの世界にし、大嫌いな日常から心を逃がしていたのだよね?」

 杏子の口調はたんたんと、けれど優しかった。非難めいたものは一切無い。

 少しの間、文哉は黙っていた。その姿は、自分の中の感情と向き合っているようだった。やがて、

「……そうだ。君の言う通りだ。楽園をつくるにおあつらえ向きな条件のそろったこの島に、私は逃避していたのだな」

 すべては数奇な運命ともいえた。保養地として灰島を選んだこと。その溶岩で固まった土地を掘ったこと。古い館をみつけたこと。自殺した女性たちの手記を読んだこと。かつて彼女たちが楽園と呼んでいた広い空間を目にしたこと……。それらすべてが、日常を厭う文哉の心理に働きかけ、楽園創造に駆り立てたのだ。

「君たちがいればどこでもよかったのかもしれない。打算なく、本心で付き合える君たちがいれば」

 静かに語る文哉の声に杏子は黙って耳を傾ける。

「君と里来……そして東郷がいて、ようやくここは私の楽園だったんだ。皮肉だな。今さら気づいてしまうなんて」

 顔を上げ、庭園の景色を眺めながら、

「楽園は……永久に失われてしまったよ」

 そうして振り返った文哉がひどい顔をして笑うので、杏子は何も言えず、ただその揺れる碧眼を見つめ返した。しばし、美しい庭園に沈黙の帳(とばり)が下りる。

 杏子は瞼を閉ざし、その内側で、可哀想なアダムの代わりに、ひっそりと、泣いた。

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