深夜零時を回っている。
昼間の地上を掻き混ぜていた忌々しい台風の触手は、そろそろこの島から最後の一手指まで引き剥がされる頃だ。
「明日、正午過ぎには船が通るから、発煙筒を焚こう。一七〇キロ先まで見えるかどうか期待はできないが、何もしないよりは……」
数回胃の内容物を吐いたせいで酸に掠れた喉を震わせながら絞り出された文哉の声が、深夜の居間にむなしく響いた。オレは彼の声を聞きながら、この数時間の出来事を思い返していた。
今から約四時間半前。ワインセラーに倒れる東郷のもとへ文哉が駆けつけたとき、東郷はまだ生きていた。ただし、瀕死の状態だったのだ。
大地を震わすように響く文哉の叫びを聞いたオレたちは、固まった足を叱咤して、ひとり、またひとりとワインセラーへ向かった。扉の中は薄く煙り、咽かえるように濃い何かのにおいが充満していた。原因の一つはアルコール、そしてもう一つは――この数秒後に確信することになるのだが――東郷自身から立ちのぼるにおいだった。
しだいに濃密になっていく煙とにおいに鼻を押さえながら、半階分地下に潜ったワインセラーの階段を降りた。下に着くと、ワインセラーの奥の方、開いた吊戸棚の下、文哉と、オレより先に駆け出した里来、杏子がこちらに背を向けて立っていた。付近の壁や棚は黒っぽく汚れ、小型の脚立が倒れ、割れたワインボトルが散乱している。
恐る恐る彼らの元へ歩み寄った。彼らの視線の先に誰がいるのかは明白だった。――東郷だ。オレは立ち尽くす里来の肩越しに、変わり果てた東郷の姿を見た。
酷い火傷である。黒っぽく燻る全身。髪はちりちりと焦げ付き……。
瞬間――炭のようになってうつ伏せに横たわった東郷の口から小さく呻きが洩れた。弾かれたように顔を上げ、全員が顔を見合わせた。
『氷水だ! 氷水を持ってこい!』
文哉の一言で、オレたちは厨房からバケツリレーを開始した。長い廊下を七人で繋いだ。氷水の入った重いバケツを走って運び、空のバケツは投げて厨房まで戻してゆく。それが幾度となく繰り返された。
オレは疲れで頭が靄がかったまま、ひたすら躰を動かした。現実からひどく遠い場所にいるような気がした。
リレーが終わったころには誰もが、息を切らし汗だくで、顔を蒼褪めさせていた。ワインセラーの中にいた文哉と里来は、しばらく出てこなかった。
オレは残された皆と共に廊下に立ち尽くし、思い出していた。ワインセラーの中でうずくまる東郷の姿。黒い樹の皮のようものが捲(まく)れた下からのぞく、赤黒いじゅくじゅくとした内部。胃から何かがせり上がり、口の中が酸っぱくなった。
ワインセラーから出てきた文哉と里来は、オレたち以上に血の色を無くし、絶望的な表情で首を振った。リレーの終わりとは、東郷の死亡を意味していた。彼らはオレたちに解散するよう告げ、東郷の遺躰を彼の居室に運ぶ準備をし始めた。
杏子だけが震える拳を握りながら同行を申し出て、オレと伊織、イズミ、ヒュウガは暗黙の了解のように居間へ移動し、三人の帰りを待った。
待っている間、伊織は小刻みに震えていた。自分の躰を抱きしめるように身を縮め、俯き、歯をかたかたと鳴らす。声を掛けても反応が無かったため座る位置を近づけて両肩を掴んだ。そのまま何度か声を掛けるうちに、彼が小声で何か言っているのに気づいた。聞こえなくて、下を向いた口元に耳を近づけると、
『やっぱり……黒……』
意味深な言葉を吐いたあと、彼ははっとしたようにオレを突き放し、ソファの隅にうずくまった。
変わり果てた友人に別れを告げた文哉たちが居間へ入って来たとき、もう日付は変わっていた。杏子はいまだ抑えきれない嗚咽をハンカチで押し殺し、里来はその横に静かに立ってぼんやりと床に視線を投げていた。文哉は赤みの残る目元を無理に笑わせて、
『ありがとう。待っていてくれたのだな』
そしてそのあと、『明日、正午過ぎには船が通るから――』と続けた。
太陽に近い南国の島だといっても、夜明けまではまだ長かった。今度こそ本当に解散しようということで、文哉は憔悴した皆を居間から追い立てた。
自室へ戻る途中、地下二階へ続く階段で里来がオレを引き止めた。腕を引かれて振り返ると、彼の手にはすす汚れた煙草の箱とライター。
「それ、里来さんのですか」
「違う。ワインセラーに落ちていた」
「オレのじゃありませんよ。……誰のでしょう」
オレは差し出された箱とライターを受け取り、手の中で弄ぶ。箱の中身は一本しか減っておらず、ライターのオイルはほとんど使われていない。なんとももったいない。
「東郷さん……の?」
突然その可能性に思い至り、手が止まる。視線を手の中から里来に戻した。はっと息を呑む。彼の目つきは静寂を保ちながらも厳しかった。
「あいつじゃない。東郷は、十二年前に俺が注意して以来、食事の場には〝絶対に〟煙草を持ってこない」
初めてその色に気づいた。
里来の、薄墨色の瞳の奥が揺れる。悲しみに、ではない。もっと別のもの。オレは咄嗟に聞いていた。
「じゃあ誰のだっていうんですか」
「そいつは――」
里来はオレの手から箱とライターを取り上げた。
「朝になったら全員に聞いて回る」
そして立ち尽くすオレを追い越し、階下へと消えた。