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 目覚めと同時に、耳の奥を針でつつかれたような頭痛を感じた。寝返りを打ったせいでカナル式のイヤホンはシーツに転がり、内部から激しいパーカッションを洩らしている。

 オレはこめかみを指で押しながら起きあがった。音楽をとめるついでに時刻を確認する。

「二時半……かぁ」

 昼食はとうに終わっている時間だった。けれども躰が目覚めてくるにつれて空腹を感じ始める。カップ麺でももらえないかと淡い期待を抱いて厨房へ向かうことにした。自室の扉を開くと、ひらり。白い紙が廊下側に落ちた。扉に挟まっていたらしい。そこには、

『無人、さっきはごめんね。お昼ごはん、無人の分は取ってあるみたい。お腹が空いたら声掛けて、ってヒュウガが言ってたよ』

 見慣れた伊織の字だ。一画一画のとめはねが丁寧で、温和な彼を表すように、少し丸みを帯びた。

 それを見て、ほっとした。いつもの彼が、文字の中に見えてくるようだ。正直に言うと、さっき会ったときの彼はまるで、別人のようだった。彼もあのあとしばらくはぐっすり眠ったろうか。あの蒼白かった頬に、微かにでも赤みが戻っていればいいなと思う。

 オレは伊織のメモをハーフパンツのポケットに仕舞い、厨房へ向かった。

 地下一階へ階段を上がり、すぐ右手に見えてくる文哉の部屋の扉を通過する。突き当りを左(ちなみに右にはワインセラーへ続く扉がある)に曲がると左手前に一階エントランスへ続く階段、左手奥に居間への扉が見える。その廊下を行き、突き当りをさらに左に曲がると右手には使用人の部屋の扉が三つ並んでいる。厨房の入り口は、そこを真っ直ぐ行ったほとんど廊下の終わりに近い右手に、左手にある食堂への給仕用出入り口と向かい合う形で存在している。地下一階の廊下は、フロア中央の北と南に並ぶ居間と食堂をコの字型に囲っているのである。

 オレは廊下を通って厨房へ辿り着き、金属製の、のっぺりと柄の無い銀色をした扉を叩いた。

「はーい」

 奥の方から叫ぶような声が届く。まもなく、扉が内側に開かれた。瞬間、ふんわりと甘い匂いが鼻腔をくすぐる。

「無人様。いかがいたしました?」

 いつものメイド服ではなく厨房着を着たヒュウガはオレを視界にみとめると、被っていた白い帽子を慌てて取った。引っ掛かった毛が一束、結び目を抜けて顔の横にかかる。

「えっと、お腹空いちゃって……」

「昼食ですね。すぐご用意できます。十五分ほど食堂でお待ちいただけますか? 今ちょうど、里来様に頼まれたシフォンケーキが焼き上がったところでして」

「ああ、それでこの匂い」

 会話の間にも廊下に洩れ出てくるいい匂いをオレはもう一度あらためて嗅いだ。何やら香り高い素材が練り込まれていそうだが、よくわからない。うまそうだ、ということだけ脳が理解して、不覚にも腹が鳴ってしまう。ヒュウガに聞こえただろうか。気まずい羞恥を感じる。

「よろしければ、無人様もお召し上がりください。焼きたてはおいしいですよ」

「えっ、いいのか」

「里来様は一切れ二切れ召し上がる程度ですから。すぐにお持ちしますので、居間でお待ちください。よろしければ、お食事はそのあとに」

 本当に、できた使用人だなぁと思いながらオレは頷く。

 廊下を戻って居間に入ると、里来がソファで本を読んでいた。一昨日船の上で見た革張りの分厚い本ではなく、手の中に収まる文庫本だ。彼はオレが居間に入っても、気にした様子無く本に目を落としていた。

 L字型のソファの、里来の座っていない方の辺にオレは腰を下ろす。彼は無反応だった。話し掛けようと思って何度か彼を盗み見てみるも、タイミングが掴めない。やはり入ってすぐ挨拶でもすべきだった。何かに気を取られて失念していた。何か、というのは里来その人のことだ。オレは、口を半開きにしてうっそりと本に見入る彼の姿に見入って、出すべき言葉を忘れていた。

 あんまりじろじろ見るのも変なので目を伏せ、ふと視界に入った爪をこすり、汚れが気になっているような素振りで時間を潰す。

 里来という人はどこか、オレとは違った世界にいるように感じる。うまく言えないが、確かにそこにいるのに、いない。実は彼は陶器人形で、叩き割ったら中身は空っぽなのかもしれない。

 居間と食堂を繋ぐ両開きの扉を開けて、ワゴンにシフォンケーキとティーセットを乗せたヒュウガが一礼した。彼女は厨房着からメイド服に着替えており、帽子の着脱で乱れた髪もきちんと纏められていた。

「お待たせいたしました。里来様のご注文のシフォンケーキですが、焼きたてですのでぜひ無人様にもお召し上がりいただきたく、こちらでご一緒にと」

 そこでようやく里来は顔を上げ、ヒュウガを見上げた。彼の手が自然な動作で本に栞を挟んで閉じる。

「悪いな。俺は一切れで十分だから、残りは全部……ああ、ナイトだな。ナイトにやってくれ」

 まるでヒュウガの言葉で初めてオレに気づいたような口ぶりだった。いや、気づいたというよりは……それまではどうでもよかったモノに、対処しないといけなくなったので対処した、というのがしっくりくるような……。

「かしこまりました」

 突然オレの目の前に、ほとんどワンホールのシフォンケーキが置かれた。

「あっ、え、いや。そんなには」

 皿に入りきらずに別添えで相当量の生クリームも。

「ごめん、ヒュウガ。こんなにたくさんはちょっと……」

「しかし、里来様が」

 助け舟を求めるつもりで里来の方を見ると、彼は一口大に切ったケーキに生クリームをつけて口に運んでいる。そしてもぐもぐと咀嚼しながら、閉じていた文庫本を開き、栞をガラステーブルに乗せた。

 なんとなく、疎外感(一人でいるのは里来の方なのに)を感じ、口をつぐむ。シフォンケーキの大きさをどうしようか、とこちらを覗き込むヒュウガにオレは、別添えの生クリームをケーキにすべてかけきることで答えた。我ながら、なんて男らしい。

 大きめのフォークをもらい、上から抉るように攻略する。砂糖無しの紅茶によって一息ついたところでようやく、ケーキに練り込まれた香りの正体が紅茶の葉であると気づく。

「これ、なんて紅茶?」

「アールグレイです。里来様が好んで飲まれる」

「へぇ」

 話題の当人は片手で文庫本を支え、ケーキに切れ目をいれている。まるで彼の一ミリこちら側には目に見えない膜が張っていて、音も景色もすべて遮断しているかのようだった。

 オレはまた、ケーキを口に押し込む。ドーナツ型の一か所切り取られた部分は里来の分だ。きっと彼は、その一か所以外どうでもいいのだろう。だからオレに全部くれてやったのだ。そう考えるとなんだかむしゃくしゃして、意地でも食べきってやろうという気になった。

「お味はいかがですか、無人様」

 一心不乱に咀嚼するオレにヒュウガが微笑みかける。いったん手を止めて落ち着けと言いたいのだろう。そう言われてもおかしくないくらい無茶苦茶に、ラスト一分の大食い選手よろしく口に詰め込んでいた。

「気に入っていただけたでしょうか」

「もちろん」

 オレは口の端についた生クリームを舐めとり、最高の笑顔を貼りつけて、

「悪いんだけど、このあとの昼食はキャンセルで!」

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