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 午前八時の食堂。朝食は東郷の席をぽっかりと開けたまま開始された。

 先日と対照的な洋食のメニューを口に運ぶ皆の表情は、昨夜見たときと同じ、浮かないものだった。

「東郷は来ねぇのか」

 正面の空席を見据えて里来が言った。皿の上に畳まれたままのナフキンは、主(あるじ)の不在を寂しく訴えている。

「仕方ないさ。私が悪かった。チトセを運ぶのを、彼に頼まなければよかった」

 視線を落とした文哉に掛ける言葉を失ったせいか、里来は口を半開きにしたまま食事の手を止めた。そうして思いついたらしい台詞が、

「……そうだ、ガキども。ウィンドサーフィンでもするか」

「大変残念なことですが里来様、地上は台風の……おそらく、ちょうど強風域にはいったころでして……」

 言いにくそうにしているイズミが気の毒に思えた。言われた方は半開きの口から曖昧な呻きをこぼしていた。

 イズミの話では、今日一日は館の外へ出ないようにとのこと。折れた枝やヤシの実が飛んできて危ないのだという。

 外に出られないことを残念だとは思わなかった。どのみちもう、オレも伊織もバカンスを楽しむ気など無い。それどころか早く帰りたいとさえ思っている。なにせ二人も人が死んだのだ。そしてその一人は親友の軽井幸一。

 オレも伊織も、幸一の母親を知っている。幸一の家に遊びに行くと、よく夕食をごちそうしてくれた。息子を、成人を過ぎた今でも〝コウちゃん〟と呼んで可愛がった、あのふくよかな女性の頬が、深い悲しみにやつれるさまを思うと、気分は地を這うように落ち込んだ。

 伊織の正面の幸一の席には、ナフキンすら置かれていない。それは使用人たちの正しい判断の末であるとわかってはいるが、何も無い席が目に映るたびに、幸一の存在がこの世から忘れ去られてしまったような虚しさを感じるのだった。

 ぼんやりと考え事をしながら食後のコーヒーを飲み終えるころ、左隣の伊織がオレの脇腹を小突いた。

「なんだ」

「話があるんだ。このあと、部屋に来てよ」

 伊織は正面に向かったまま俯き気味に、ごくごく小さな声で囁いた。その表情は艶をなくした金髪の陰に隠れてしまっている。彼の異様な雰囲気に戸惑って一瞬間が空き、「無人」と名を呼ばれる。その声音は彼にしては重低で、突き刺すように厳しい。

 オレはほとんど無意識に、「わかった」と口にしていた。


   ◆


 食堂から伊織の部屋へ向かう途中、彼は一切オレの方を見なかった。ただならぬ様子に、どうしたのかと理由を問えど、前を向いたまま

「いいから来て」

 と言うだけ。

 何か腹を立てているのかもしれなかった。といっても、理由が思い当たらなかった。そもそもいつもの彼は滅多に怒らないのだ。感情のまま怒鳴ることも無ければ、今みたいに理由も告げぬまま不機嫌になることも無い。いろいろ考えたのちオレは、自分でも気付かぬうちに温厚な彼の逆鱗に触れてしまったのだ、という結論に至った。

 伊織は静かに部屋の鍵を開けた。自分が先に入り、オレを中へ入れるとすぐさま鍵を掛け、そこでようやく彼はオレの目を見た。

「無人」

 その表情は、打って変わって縋るようなものだった。オレはギャップに驚かされ、

「お前、怒ってたんじゃないのか」

「怒ってないよ。考えてたんだ、一昨日の夜のこと」

 伊織に続いて部屋の奥へ進んだ。

 彼の部屋はオレの部屋と随分レイアウトが異なっている。部屋へ入るとすぐ右手をトイレとバスルームの並んだボックスに遮られていた。通路のように細くなった扉前は照明が薄暗く、そこを突きあたりまで行って右へ抜けるとベッドや机が見える。壁は一面、煉瓦模様だった。天井には木で作った、おそらく自転車のホイール……と、五平餅のような形に丸められた白い糸。

「こっち」

 伊織がベッドに座り、自分の隣をぽんぽんと叩いていた。

「深刻な話なのか?」

 聞きながらオレはベッドに腰を下ろす。

「そうだよ。他の人には聞かれたくないから僕の部屋にしたんだ。一昨日の夜のことで無人に聞きたいことがある」

 にわかに厳しさを帯びた瞳は臆することなく真っ直ぐにオレを捉えた。

「あの夜、無人と里来さんはずっと一緒だったんだよね?」

「ああ」

「二人は、本当に館の中にいたの?」

「いた。エントランスに飾ってある歌を見たあと、地下庭園に降りて里来さんと話してたんだ」

「本当に?」

「本当だって」

「ずっと地下庭園の中にいたんだね?」

「ああ。他の場所には行ってない」

「それは何時ごろの話?」

「はあ?」

 しつこい追及だった。身を乗り出し、疑り深くこちらを見ている。一体何が気に食わないというのだろうか。オレは本当のことしか言っていないのに。

 うんざりしながらも、記憶を呼び起こし、答える。

「確か、館に入ったのはビーチで花火が上がり始めた少し後だ。オレは腕時計はつけないから時間はわからない。出てきた時は、八時だって里来さんが言ってたな」

「わかった。それで君たちは、その時間のほとんどを地下庭園の中で過ごしたって言うんだね?」

「……なぁお前、どうしたんだよ」

 常ならぬ彼の気迫。彼は何を疑っているのだ?

「言ったでしょ? あの夜、君たちが館にいた時間、僕も館中回って君たちを探してたんだ。鍵の掛かって開かない部屋も、一室ずつノックして大声で名前を呼んだ。庭園のある階にも行ったよ、あの巨大階段を降りて。でも庭園の中には入らなかった。入れなかった。だって――」

 そこで伊織は肩を震わせて俯いた。

「地下庭園の入り口には、鍵が掛かってたんだから……」

「そんなわけない」

「いいや、確かに鍵は掛かってた。だから僕は君たちの名前を呼んで扉を叩くことしかできなかったんだ。ねぇ――」

 ぐっと肩を掴まれた。伊織は顔を上げ、困惑した表情でオレを揺さぶる。

「本当に庭園の中にいたの……? 文哉さんしか鍵を持ってない庭園の中に、どうやって入ったの?」

 オレを凝視する大きな瞳がいまにも泣き出しそうだった。彼はたぶん……怯えている? 頭の良い彼はきっと、この短い期間に思考を巡らせて、何かよくないことに思い至ったのだ。

「鍵は掛かってなかった。伊織、本当だ」

「じゃあ、僕が嘘ついてるっていうの」

「違う。でも……オレは嘘はついていない。里来さんに聞いてくれればわかる」

「聞いて無人、僕が言いたいのは、君たち二人ともが怪しいってことなんだ」

「はあ!? 怪しいってなんだ! いいかげんにしろよ、伊織!」

 オレは苛立ちを抑えきれず、思わず声を荒げる。伊織ははっと息を呑み、目を丸く見開いて動きを止めた。そして、震える唇から掠れた声で、

「君たちは、幸一とチトセの死について、何か知っていながら隠してるんじゃないの?」

「知らない。知るわけないだろ。お前、疲れてるんだよ……。ろくに寝てないんじゃないか? 酷い顔してる」

「そう……そうか。……ううん、ごめん」

 伊織は虚ろな目で独り言のようにぶつぶつとそう言うと、ベッドに倒れ、脚を丸めてオレに背を向けた。

「無人、僕……ごめん……」

 控えめな啜り泣きが聞こえてくる。オレはなんとなく、彼から目を逸らした。

「幸一が……幸一がまさか、あんな……」

「もう考えるのやめろよ。どうにもならない。お前はいつもあれこれ気を使いすぎなんだ」

 啜り泣きのあいまに、はは、と無理矢理な笑い声がした。

「船の上でも言われたな……」

「二日間じゃ、人は変わらないもんな」

「そうだね。僕の……これは性分かな。……さっきの、忘れて無人。もう、言わないから」

「庭園の?」

「そう。きっと僕の勘違いだよ。……ああ、泣いたら眠くなってきた。ずっと涙が出なかったんだ。泣いたら、幸一の死を認めたことになりそうで、怖くて」


   ◆


 それからまもなく、伊織は丸くなったまま穏やかな寝息を立て始めた。オレは彼を起こさぬよう部屋を出た。そこでちょうど、巨大階段を隔てた向かいの部屋から東郷が出てくるのが見えた。こけた頬に伸びた髭。痩せた躰をふらふらさせて歩く姿はまるでゾンビのようだと思った。彼はそのまま階上へ上がっていった。

 オレは自室に戻り、ベッドに身を横たえた。そこで一息つき、ふと思い立って、白雪姫の魔女が持つような姿見を覗き込む。

 眉は下がり、目の下はくすんでいた。日焼けした肌は鼻の頭が少し赤くなり、だらしなく皮が剥けている。何かに憑りつかれたようにうっそりとした表情だった。まるで自分のそれではないような恐ろしさを感じる。

 オレも寝ることにした。シーツの中に潜り込み、イヤホンをつけ、最高にたぎるアルバムをエンドレスで流しながら目を閉じる。

 伊織の言っていたことが気にならないわけじゃないが、考えても仕方がない。彼はどこか普通じゃない様子だったし、あの話がどこまで本当かもわからない。

 面倒で不毛なことは、忘れるに限る。そうだ、伊織もそうしてほしいと言っていた。

 そう簡単に忘れらんないってのは、

「わかってんだけど……」

 自嘲を込めた呟きは、イヤホンから流れるハードロックに掻き消された。

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