この館のシェフ兼メイド――ヒュウガはやや焦りの気持ちを抱えて厨房へ立っていた。室内でとる今日の夕食は午後七時の予定だが、前日からのいざこざのせいで、下ごしらえがほとんどできていない。
男子大学生の旺盛な食欲に応える二日目の夕食である。イズミやチトセ、主人である文哉にも考えを聞きつつヒュウガが予定としていたメニューは、酢飯でさっぱりとしながらも食べ応えのある握り寿司。
「無理……かなぁ」
けれどもその予定は大幅な変更を余儀なくされていた。なにせ、メインとなる魚類がすべて冷凍室で凍ったままなのである。夕食まで三時間をきった今から解凍しても間に合わない。
主人は「手の込んだものは作らなくていい」と言うが、夕食ぐらいは豪華でなければ、とヒュウガは思う。こんな事態だからこそ、〝食〟の充足は欠かせないのだ。人間の三大欲求の一つである食欲を一手に任された責任は重い。
「なぁイズミ。夕食なんだけど、オムライスはどうだろう。明日ハンバーグに使おうと思ってたデミグラスソースが鍋にあるし、サラダとデザートを少し豪華にすれば……」
「いいと思う。ヒュウガのデミグラスは美味しいもの。好きだな、あの味」
イズミは昼食で使った食器の水気を拭いて棚に仕舞いながら微笑した。ヒュウガは照れくさそうに笑い返し、まずは材料を集めるべく常温室へ向かう。
地下一階フロアの南西に位置する厨房の北側には、食料を貯蔵する三つのスペースがある。西側から常温室、冷蔵室、冷凍室だ。それらは一部屋ずつ完全に独立している。中に入るには木製の扉を開け、下方へ続く階段を降り、分厚い金属製の扉を開けねばならない。三つのスペース自体は、地下一階にある厨房から半階分降りた、地下一・五階に位置しているといえる。
「こっちは終わったから、手伝うよ」
ヒュウガが常温室から階段を上がってくる途中、イズミが上の扉から覗いて言った。
「じゃあ、野菜の下ごしらえをお願いしようか」
「任せて。デザートは何にするの」
「うーん……マンゴープリンアラモードってのは?」
「賛成!」
イズミを見ていると心が癒される。十年前この島の海辺で出逢ってから、毎日のようにヒュウガはそう思ってきた。その顔を見るだけで、名前を呼ばれるだけで、胸の内に温かく火が灯るのだ。
決して強い人間ではないだろう。けれど、いつも気丈に振る舞い、他人に弱みを見せまいとするイズミ。優しさと思い遣りを忘れず、使用人の長として主人の信頼も厚い。
「ヒュウガ、どうしたの」
「なんでもないさ。あたしはデザートの下ごしらえをするから」
「うん。ピーマンの大きさ、これくらいでいい?」
「上出来だ」
「やった、褒められた」
イズミが満足げに頬を染める。
こうして敬語を取って、素になったイズミと過ごす時間がヒュウガは好きだった。澄ました仮面の内側の、本当の相手が見える。世辞も遠慮もいらない。二十歳という年齢にふさわしい、無邪気なイズミがそこにいる。
友人、親友……家族ほど距離が近い相手だけに見せるその表情を、ヒュウガは知っていた。
◆
夕食の時刻まで五分をきった。料理はあらかた完成し、あとは調理台うしろの冷蔵庫で冷やしているマンゴープリンとカットフルーツを、提供する直前に生クリームと組み合わせ、冷凍マンゴーを乗せるだけだった。
ヒュウガは盛り付けた皿の最終チェックを終えると、厨房着からメイド服に着替えた。
食堂から戻ってきたイズミは、全員が勢ぞろいしたことを告げる。ここから二人で料理の提供が始まる。オムライスの深皿を持ち、一直線に開け放たれた厨房と食堂の扉をくぐる。
「やぁ、いい匂いだ」
扉のすぐ手前、長方形のテーブルの短辺に座った文哉が疲れた顔に最大限の笑みを乗せて、奥の客席から配るよう促した。
◆
食事の給仕を終え、ヒュウガとイズミはようやく自分たちの食事にありついた。
オムライスもサラダもデザートも、客人たちの反応は上々だった。特にデザートは、華やかな見た目のアラモードにしたことで、登場の瞬間から感嘆の声を得ることに成功した。「さすがはうちのシェフだ」という主人の言葉に澄まし顔で一礼したあと、ヒュウガは厨房へさがってイズミとハイタッチをした。
「やっぱりヒュウガのデミグラスが一番だなぁ」
スプーンで口いっぱい頬張ってイズミが笑った。
「大げさだ」
「ホントだよ?」
ソースを口端に滲ませて屈託なく微笑むイズミの言葉にはあらがえない。ヒュウガは自然と口が弓なりになるのを誤魔化しつつ、冷蔵庫を開けた。
「アラモードもあるよ、二人分」
「え、いいの?」
「食べたそうにしてたくせに」
「うーん、バレてたのか」
オムライスを食べるイズミの隣で、ヒュウガはマンゴープリンアラモードを盛り付け始めた。
背の低い幅広の器の中央にオレンジ色のプリンを乗せ、その周りをしずく型の生クリームで囲う。その上に添えるようにして、薄切りにしたキウイ、リンゴ、オレンジを飾り、バニラアイスを丸く落とす。アイスの上にはマンゴーソースで編み目を描き、最後に冷凍の角切りマンゴーを散らす。
「さぁ、どうぞ。生クリーム多めだ」
「やった。ありがと、ヒュウガ」
ヒュウガはイズミの前の空の深皿とアラモードの器を入れ替える。自分の分も手早く作り、スプーンを持って律儀に待っているイズミの前に座る。
「あれ、ヒュウガの、冷凍マンゴーが乗ってない」
「ああ。うしろの冷凍庫のストックがそれきりでね」
「じゃあ半分ずつ」
「いいって、食べなよ。それはイズミのために作ったんだ」
「駄目だよ。ヒュウガ、マンゴー嫌いじゃないでしょ」
「あー、わかったわかった」
自分の器からマンゴーを移そうとするイズミの手を制し、ヒュウガは席を立つ。
「下にはあるから、取ってくるよ。それでいいだろ」
「うーん……」
複雑そうな視線を背に受けながらヒュウガは冷凍室へ続く扉を開けた。
彼女の悲鳴が階下に反響したのは、その数十秒後のことだった。