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 杏子の用意した導火線に、東郷が煙草の吸いさしで火をつけた。

 じりじりじり……ぱんっ。

「わぁ、飛んだ飛んだ」

 桃色の落下傘が群青とオレンジの混じった空に打ち上がり、ふわりふわり、たんぽぽの綿毛のように揺られて海面に落ちた。

「遊んでんじゃねぇぞ、てめぇら」

 三台並んだバーベキューセットの一つに網を乗せていた里来が花火の破裂音に振り返り、叫んだ。

 時刻は午後六時をやや過ぎている。島の主人も客人たちも皆一堂に会し、夕食は今まさに始まろうとしていた。

「手伝っていただいてすみません」

 里来に同じく網を手にしたイズミは、白い新品の軍手の甲で汗の滲む額を拭った。

「毎年思うがその恰好、暑いだろ。軽装にしたらどうだ」

「これが使用人の正装ですので」

 と、イズミは今度は人数分用意された折りたたみ椅子を開きながら答える。

「律儀なこった。ヒュウガ、お前は?」

「もう慣れましたよ、里来様」

 肉や野菜のプレートをテーブルに並べていたヒュウガは、涼しい顔で目を細めた。

 オレはドリンク用のテーブルで文哉が酒やジュースの栓を開けるのを一緒に手伝っていた。栓の開いた瓶は元通り、水と氷がたっぷり入った銀のバケツの中に突き刺す。伊織はグラスを並べ、幸一はロックアイスを砕いて丸く成形している。

「そういえば、チトセはどこへ行った」

 文哉が瓶を手にきょろきょろとあたりを見回した。見通しの良いビーチに、チトセの姿は無い。

 再び波打ち際で落下傘が上がった。杏子が高く歓声を上げ、その横で東郷は煙草をふかしながらおやじくさく笑う。

 辟易したように里来は舌打ちし、文哉の手から酒瓶を奪い、一口煽った。

「待て待て、まだ乾杯が済んでない」

「あいつらほっとけよ」

「チトセがいないんだ。たぶん、まだ館の方に……」

 一仕事終えたイズミが文哉に向き直った。

「あの、旦那様。申し上げにくいのですが、実は、チトセは先ほど〝狩り〟に行くといって裾野の森へ……。止めようと思ったのですが、彼女は足が速くて」

「なるほど……それは仕方ない」

 〝狩り〟という言葉に文哉は一瞬目を丸くし、すぐにふっと笑ってみせた。いわゆる呆れ笑いというやつだ。

「さすがはチトセだ。狩人の血が騒ぐのかな。たしかこの島には珍しい鳥が渡ってくると」

「申し訳ありません、今からでも探しに」

「いや、それには及ばない。好きにさせておこう。心配ない。彼女はプロだ」

「プロの狩人なんですか? じゃあ、銃とか持って?」

 つい尋ねてしまった。文哉は笑顔で振り返り、

「そうだ。明日の朝食は鳥鍋かもしれない。もしくはエントランスの額縁の横に、新鮮な剥製が並ぶな」


   ◆


 かくして夕食はチトセ抜きで開始された。使用人二人も合わせ、九名でグラスを手に島の主人の音頭を待つ。

「あらためて歓迎する。無人、伊織、幸一、我が灰島へよく来てくれた。一週間、短い間だが存分に島を満喫してほしい。それでは、我々の出逢いに、乾杯」

 オレはグラスを高く持ち上げ、それから泡立つビールを一気に飲み干した。渇いた喉を流れる苦い炭酸は、熱っぽい躰を爽快にさせる。

 ほどなくして、網の上から香ばしい匂いが立ち始める。三つのバーベキューセットのうち、二つの網ではすでに串に刺された肉や野菜が食べごろを迎えていた。三つ目の鉄板の上ではヒュウガがステーキの準備をしている。薄く塗られた油がぱちぱち弾ける鉄板は、霜の差した分厚い牛肉を今か今かと待ち受ける。

 オレは手近な網からねぎまの串を一つ取り、頬張った。香辛料がぴりりと効いており、たちまち酒が欲しくなる。

「無人、泥酔は勘弁だよ?」

 冗談交じりに笑う伊織は、オレのことなどお見通しといった様子だ。オレは酒に弱いくせにすぐ飲みたがるふしがあるため、よく酔いつぶれ、彼には世話になっている。

「オレみたいにちびちびやれよ」

 日本酒をロックで割ったグラスを掲げ、幸一がにやついた。

「おやじかよ」

 しっ、と伊織が眉をひそめる。彼の視線の先を見ると、里来が幸一に同じく日本酒ロックをちびりちびりと舐めていた。オレは頭が一気に冷えて、持っていた空のグラスを砂の上に取り落した。

「大丈夫かい」

 と声を掛けてきたのは文哉だった。

「若者はペースが早いな。酔いが回ってきたら、あそこで横になるといい」

 彼は、自身も酔い始め赤くなった頬を緩め、ビーチの東寄りに三つ並んだデッキチェアを示した。

「まだ平気ですよ」

「それは頼もしい」

 くつくつと笑う彼は上機嫌に見える。オレは落ちたグラスを拾い上げ、新しくシャンパンのグラスを手に持った。どちらともなくグラスを合わせ、互いに一口含む。

 文哉は島の方を見上げて愉快そうに目を細めた。

「夜の〝ウィッチ・ピロー〟も、こうして見るといい酒の肴だな」

「ういっち?」

「あの休火山さ。ウィッチ・ピロー――魔女の枕……ってね。ああ、待て杏子。東郷にあまり飲ませ過ぎるな。悪酔いする」

 ウィッチ・ピロー、そのいわくありげな名称の理由を尋ねたかったが、文哉は他に気を取られて行ってしまった。仕方ないので、知っていそうな、かつ大人組の喧騒に加わらず暇にしている〝彼〟に聞いてみることにした。

「里来さん、隣いいですか」

 了承を待たず、椅子を引きよせて座る。

「ああ、ナイトか」

 彼は空いた椅子を二脚陣取り、皿に目一杯串焼きを乗せて一本ずつ消費しながら日本酒ロックをくるくる回していた。見ると、皿の串焼きはぜんぶ鶏肉だ。

「鳥が好きなんですか」

「ああ。くどくなくて食べやすい。〝おやじ〟は、脂っこいのは苦手でな」

「あー、いや、はは」

 まったく返答に困る。さっきの幸一との会話が筒抜けだったようだ。しかしオレはここでめげずに目的の話題を振った。

「あの火山、ウィッチ・ピローっていうらしいですね。魔女の枕だなんて、変わってると思いませんか」

 里来は口をつけていたグラスの縁をぺろりと舐めて離し、アルコールに薄赤く火照った目をしばたいた。そしてこちらを一瞥し、

「ありゃ、文哉の趣味だ」

「趣味?」

「山だけじゃねぇ。あの館……俺から言わせりゃあんな場所を改築して別荘にするなんざ、キチガイもいいとこだ」

「どういうことですか」

「知りたいか」

 ぐいっと日本酒をひと呑みした彼は、実は文哉らより酔っているらしかった。食べてばかりで、あまり量を飲んでいたようでもないので、彼は相当、酒に弱いのだろう。いつも半開きの口はいっそう力無く、こちらに向けられた視線はよろよろしている。にも関わらず、里来は次の一杯をグラスに注ごうとしていた。その瓶を半ば無理矢理もぎ取って、ラベルを見る。

「越後さむらい? ……げ」

 アルコール度数四十六度。オレは驚愕した。と同時に、彼は自分と似たタイプの無謀な酒飲みなのだと悟った。

「オイ、知りてぇのか、知りたくねぇのか」

「それは知りたいですけど……それより里来さん、大丈夫ですか」

「じゃあついて来い」

「え」

 里来は突然立ち上がり、オレを見下ろした。目が据わっていて恐い。彼の持っていたグラスが足元の砂を転がってゆく。

 彼は数秒間ぼうっと立ち尽くしたあと、思い出したように踵を返して歩き出した。

「文哉、俺は今からこのガキとデートしてくる」

 呂律がまわっていない。恐らくどんちゃん騒ぎの中の誰にも聞き取れていないだろう。オレは立ち上がり、館へ続く道を上りはじめた彼の背を追いかける。

「デートなんですか?」

「楽園だ」

「なんだか酔いすぎですよ。ホント、平気です?」

「文哉は、姫たちの楽園をつくったんだ」

「……はぁ」

 思わず嘆息してしまう。酔っ払いの言葉はわからない。ウィッチ・ピローの由来はさておき、ますます彼の体調が気掛かりだった。

 そんな心配はどこ吹く風と、里来は軽い足取りで進んでいく。

 と、ここで背後のビーチから破裂音が聞こえ、オレは弾かれたように振り返った。宵闇の空にしだれ桜ような流線で、細かな光の粒が降っている。花火が散っているのだ。

 しゅるるる……ぱんっ。

 今度はしっかりと全貌を見た。職人のそれとまではいかないが、この隔絶された無人島で見るには十分な大輪だった。

 どうにも郷愁に駆られる。こんな風に小高いところから花火を見た記憶があった。

 群青が広がり、視界の右端では夕陽のオレンジ色が今まさに水平線に呑まれんとしている。そして中央に打ち上がる花火。

 誰かが立っていた。誰かの背中越しに見た花火だった。夜の色に溶ける深い色の浴衣、りぼんの形の帯、黒髪を揺らして、白い顔が振り返る。花火の逆光の中で、破裂音に混ざって聞こえた声。

『*は、***が、**』

 瞬間、心臓が跳ねた。酒で巡りが良くなっていた血液がいっそうぐるぐると体内をまわる。

 肩に、とん、と何かが触れた。

「ほら、早くしろ、ナイト」

 それは里来の手だった。彼は自分の後をついて来ないオレに業を煮やし、道を戻ってきたようだった。赤いままの目元が歪む。

「酔っ払いの戯言だと思ってるだろ」

「いえ、そんなことは」

「いいぜ、戻るか。デザートもまだだしな」

「あ、その、待ってください」

 彼がビーチへ逆戻りするのと同時にオレの肩からするりと離れていった手を、オレは思わず掴んでいた。彼は驚いたのか、躰を硬直させてすぐにオレの手を振り払った。

「すみません。でも、デートって言いました」

「お前が?」

「あなたが、です。なので、行きませんか」

 〝酔っ払いの戯言〟と彼は卑下して言った。

 けれど自分は、そんな戯言にたまらなく惹かれているのだった。彼らの知っている何かを知りたかった。そう強く思わせるのは、非日常的なバカンスの雰囲気と、謎めいた地下の館への興味――

「ああ、デートか。そうだったな。……お前、女だっけ?」

 それと、目の前の彼の奇妙な魅力なのだった。

「いいえ、里来さん。内島無人は正真正銘、男ですよ」

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