夕食までの一時間半、三人は別々に行動することとなった。
幸一は部屋でシャワーを済ませたあと、一人ふらりと館を出て、館付近の短い草地の中に点々と立つヤシの木の一つに腰を下ろした。
夕暮れはまだ遠い。西の空に浮かぶ太陽は、まだ水平線の上で丸々としている。けれどもいくぶん涼しくなった潮風は、シャワーを浴びたまま乾かしていない幸一の短い髪をさわさわと心地よく撫でてゆく。
ヤシの木の幹に背を預け、幸一は生気の零れ出るような溜息をついた。ふとした瞬間に思い浮かぶのは、恋い焦がれる女性の顔だった。
艶やかに肩を流れる黒髪、まろみのある白桃のような頬、言葉少なな小さい唇。意志の強い紫黒(しこく)色の瞳はついに、自分を捉えることは無かった。
断られることを承知で想いを告げた。なのに、こんなにも深く傷ついている。苦い痛みだった。
「ちくしょう……」
それでも告げずにいられないのが恋というものだ、と幸一は思う。何度も忘れようとし、けれど忘れられなかった恋心と無人との友情の間で、幸一は板挟みになっていた。
〝好きな人の好きな人〟を前に、自分はうまく振る舞えてるだろうか。無人への恨みは全く無いとはいえない。けれど、彼は気の置けない友人……いや、親友であると幸一は思っている。
眼下に寄せては引く波を見つめていると、自分がどこにいるのかわからなくなる。現実離れしたこの島の光景すべてが、海を隔てた向こうの現実に囚われ続ける幸一の心を惑わせる。
やがて彼は、立てた膝の中にうずくまり、風の音を聞きながら目を閉じた。
◆
「どうしたんですか」
幸一が顔を上げると、非常識でない程度の至近距離からチトセが覗き込んでいた。
「あ、いや、別に……」
「食べますか?」
彼女は眩しく微笑み、手に持っていた二連の棒付きアイスをぱきんと真ん中で割って片方を差し出した。子どものころに食べた、懐かしいシャーベット状のアイスである。
「ありがとう」
幸一が受け取ると、チトセはヤシの木のちょうど幸一の座った位置の反対側に背を預けて腰を下ろした。たっぷりしたロングスカートが、短い草の上に広がる。
「もうすぐ夕食ですので、アイスは内緒ですよ」
イズミに怒られちゃいます、と彼女は冗談めかして言う。
幸一はアイスを一口齧る。しゃりしゃりと舌の上に転がる氷の粒は、甘酸っぱいオレンジの味がした。鼻の奥がつんと熱くなり、それを振り切るために、
「うまいな、これ。オレンジのつぶが入ってる」
「ヒュウガの手作りなんですよ。彼女は、本土の館では料理人として働いてます。腕は一流です」
「へぇ、それは夕食が楽しみだ」
「ちなみに、私の本業は狩りなんですよ」
ヤシの木の向こうからくるりとチトセが振り向いた。
「他の二人と違い、私は通いの副業メイドとして雇っていただいてます」
「イズミとヒュウガは専業なんだ?」
「そうですよ。二人ともすごいんです。私とほとんど年が変わらないのに、ヒュウガはシェフだし、イズミは別邸を含めて数十人といる使用人たちのまとめ役なんです」
「そりゃ大抜擢だな。二人は勤めて長いのか?」
何気ない疑問を口にすると、チトセの表情が微かに曇った。幸一は咄嗟に話題を変えようと考えるも、口を開くより先にチトセが答えた。
「ヒュウガは、シングルマザーだったお母さんがアッカーソン家で住み込みのメイドをしてて」
「〝だった〟?」
「あの、病気で……だそうで。イズミも、ちょっと訳ありで……」
よくないことを聞いてしまった、と幸一は自分に舌打ちしたくなる。チトセの表情が重い。
やがてチトセは思い切ったように顔を上げる。
「私の失言でした。今お聞きになったことは、お忘れください」
つい口が滑って、ということなのだろう。
「わかった、オレは何も聞いてない」
そう宣言すると、彼女はほっと肩を下げた。
気がつけば、西日は低くオレンジ色に島を照らし、夕食の時間は間もなくだった。
「私、そろそろ仕事に戻ります」
チトセは立ち上がり、ロングスカートについた草をはらった。幸一は彼女の片手にアイスの棒をみとめ、
「それ、捨てといてやるよ。持ってくとバレるだろ」
「いいんですか」
「ついでだ、ついで」
「ありがとうございます」
棒を掴んだチトセの細い指が、一瞬幸一のそれに触れる。
それではまたあとで、と言って彼女は駆けていく。左右に揺れるポニーテールを眺めながら、幸一は二本のアイスの棒をぼんやり握る。
口内にはまだ甘酸っぱいオレンジが残っていたが、独りになっても不思議とさっきほどつらくはなかった。