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 得も言われぬ絶景だった。海底では色とりどりの珊瑚礁が枝を伸ばし、そのあいだを鮮やかな南国色の魚たちが行き交う。そこへそっと手を伸ばすと、魚たちは逃げるどころか寄ってくる。人間への警戒心が無い。伊織がソーセージを剥くと、小さな魚たちは彼を母親とみなしたかのように群がった。

 茂った海藻の根元には手足の透けたエビがいた。絶壁に近い岩場には、ナマコが張り付いている。フィンを履いた足を砂上に降ろすと、ヤドカリがフィンの先を乗り越えてとことこ歩いてゆく。その周りの砂一面に、銀の光の編み目がゆらゆらと揺らめく。

 遠い水面を見上げれば、コバルトブルーの海越しに燦々(さんさん)と輝く太陽が、その存在を中心として、オーロラのような陽光を降らせていた。

 人間に侵食されない海、それがこれほど生命の輝きを育むとは驚きだ。時計にとらわれない自然のときが流れている。地球の盛衰にのみ身を任せ、それを運命と捉えて抗わぬ生き物たちの世界。

 せかせかと時間に追われた人間の三十分は、あっという間だった。

 きっかり時間通りにオレたちは浮上し、熱された船上に躰をくつろげた。

 里来は操縦席でまたあの革張りの本を読んでいた。彼はオレたちが全員船に上がったとみると本を閉じ、エンジンキーを回した。

 ぶおん、と船が振動を始める。

「杏子、出していいか」

「オッケー、よろしく」

 船は旋回し、もと来たルートを辿る。背後に遠くなってゆく絶壁。背負った器材を下ろし、ウェートスーツの前を寛げたオレは、その縞模様の岩肌を見つめる。

「すごかったね。ソーセージ、あっという間に無くなっちゃったよ」

 伊織が冷めやらぬ興奮に瞳を輝かせている。幸一も興奮気味に感想を語り、杏子は彼らの姿に満足げにうんうんと頷いている。

 オレは立ち上がり、操縦席の扉を開けた。

「なんだ」

 里来は振り向かずに問う。

「綺麗でしたよ、海の中」

「それはよかった。戻って座ってろ」

「あの岩場、上は白波が立って恐いですけど、下は穏やかなんですね。魚がたくさん隠れてました」

「上っ面(つら)に騙されるな、ってことだろ」

 彼は抑揚なく言った。オレはその言葉に勝手に別の意味を重ねてにんまりとする。

「なんの本を読んでるんです」

 空いた椅子に置かれた本に手を伸ばす。

「濡れた手で触るな。……推理小説(ミステリ)だ」

「好きなんですか、謎解きとか」

「別に。たまたま持ってきた本の一冊がそれだってだけだ」

 そう言って、彼はこちらにじろりと視線を寄越す。

「戻らねぇならそこ、座ってろ」

 顎で指されたのは、彼が先ほどまで座っていた椅子だった。オレはそれを引き寄せ遠慮なく腰掛ける。背の高い椅子がぎしりと軋む。

 船は左手にビーチを眺め、もう間もなく桟橋へ着く。弱められていくエンジン音の中で、ふと思い出して口に出した。

「そういえば、クラゲはいませんでしたよ。残念」

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