船を降りると、桟橋の上では西洋風の衣装を身に着けた使用人が二人、背筋をぴんと伸ばして待ち構えていた。片方は金髪、もう片方は黒髪。イギリス王室にでも勤めていそうなその装いは、南国の砂浜をバックに奇妙なほどに浮いている。けれど本人たちに気にした様子は無い。詰まった襟元を暑がるそぶりも見せず、澄まし顔である。
金髪の方が口を開く。
「お待ちしておりました。内島(ないとう)御一行様ですね。私はここの主人に仕えております、イズミと申します」
「同じく、ヒュウガと申します」
二人とも、年の頃はこちらと変わらぬように見えるが、声の調子も立ち振る舞いも数段落ち着いた印象だ。
ヒュウガと名乗った黒髪の使用人が、一歩前へ出る。
「館までは少し歩きます。お荷物をお持ちしましょう」
埃一つ、砂粒一つつかぬ黒袖を手首の白いカフスがきゅっと締めたメイド服の片腕、それが品よく差し出される。髪を後ろで結わえ、切れ長の目の下の頬に薄くそばかすを散らした顔が傾げられる。
「あー、えっと、お構いなく。三人とも大丈夫です……だよな?」
オレたちは目配せし、肩に掛けたボストンバッグをさも軽そうに掛け直した。女性に持たせるのは気が引ける。
「よろしいのですか?」
彼女は手を差し出したまま、困ったような曖昧な笑みでオレたち三人を順に見回した。三人ともが肯定の意をもって頷くと、彼女はイズミという使用人の方を振り返り、
「お優しい方たちで」
と、こちらに向けるものよりも打ち解けた様子で微笑んだ。
「ご厚意に甘えましょうか」
金色の睫毛に縁取られ、この南国の澄んだ海を流し込んだようなイズミの瞳が優しく細められる。肌は透けるように白い。それもまた、この島に不釣り合いな気がして、けれどそのちぐはぐさが興味深くもあった。
この島の主人は、本当に〝いい趣味〟をしている。
「では皆様、館へご案内します」
イズミを先頭に、長い桟橋を陸へ向けて歩き出した。歩くたび、足の下で板の軋む音がする。その板越しに見えるコバルトブルーの海は、陸に近づくにつれ徐々に浅くなり、海底の白い砂を透かしてゆらゆらと揺れる。
「あ、そこ、魚」
後ろを歩いていた伊織に背をつつかれた。彼の指さす方を見てみると、浅瀬で黄色い魚が尾を靡かせている。
「魚肉ソーセージを持って潜れば、何十匹と集まりますよ」
ヒュウガが歩きながら振り返って言った。伊織が目を輝かせる。
「すごい! さすが無人島ですね」
「ご都合がよろしければ、深い場所でダイビングをしてみては? 浅瀬よりも多く魚がいます。杏子(きょうこ)様がインストラクターの資格をお持ちですので、ご一緒に」
「杏子様って?」
「旦那様のご友人です。館には旦那様の他に三名のご友人がいらっしゃいます」
そのとき、背後の客船が汽笛を鳴らした。低く唸る汽笛は三度、南国の大気を震わす。全員が立ち止まって振り返り、その巨大な雄姿がゆっくりと後進してゆくさまを眺める。思えばこの豪華客船も、灰島という小さな島には不釣り合いだ。
強い陽射しがじりじりと肌を焼く。こめかみから流れた汗が顎の先で珠になって桟橋に落ちた。
「参りましょう。館ではお迎えの準備が整っております」
イズミが歩き出した。オレたちは後を追う。背後ではまだ、客船が動く気配がする。
桟橋の終点からは、丈の短い草地の上に一本の小道が、西へカーブを描いて続いていた。
太平洋に浮かぶ灰島。日本の最南端O島と、最西端Y島を直線で結んだちょうど真ん中あたりに存在する火山島である。島の周囲三六〇度、水平線まで遮るものの無いこの島は、まさしく絶海の孤島。ハワイやグアムのような人波も無い。ゆったりと落ち着いた時間が島全体を包み込んでいる。
砂浜を左に見ながら十五分ほど歩くと、前方に黒土色の三角形が見えてきた。ピラミッドのような形である。小道は、その南側を通っている。
「皆様、お疲れ様でした。あれが、”〝涅下(でっか)の館〟です」
「〝でっか〟?」
「さんずいに〝日〟〝土〟と書いて〝でつ〟。黒土という意味です。〝か〟は〝下〟です」
先頭を行くイズミが振り返り、地面を指さした。なるほど、地下の館ということらしい。
ピラミッドは南側にコの字型の窪みがあり、そこには観音開きの扉が収まっていた。ヒュウガが左側の扉を開け、イズミが皆を先導する。
中は涼しかった。オレは湿ったシャツの首元をぱたぱたさせながら館内を見渡した。
ピラミッド型の外観とは異なり、内部は四角い箱のようだった。四方のどこにも窓が無い。天井から吊るされたシャンデリアが焦げ茶色の板張りの床を光らせている。正面の壁に掛かった額には、縦書きの詩が毛筆で綴られていた。
「こちらへどうぞ」
東側の壁に沿って、階段が下方へ真っ直ぐに伸びている。その階段を深く、一番下まで下りていくと、ちょうど階段とT字型に交わるように廊下が伸びている。その廊下を左へ曲がる。
イズミは左手の扉の前で立ち止まり、四回ノックした。
「旦那様、お客様をお連れしました」
室内から声が聞こえる。イズミは「失礼いたします」と言って扉を押し開け、オレたちを促す。
緊張しつつ足を進める。中は広い居間のようで、左向こうの角に巨大なL字型のソファセットが置かれていた。そこに身を沈める人物が二人いる。そのどちらかが、先ほどの声の主だ。
前髪を上品に分けた金髪の男はこちらの姿を見ると立ち上がり、人の良さそうな紳士的な笑みを浮かべて数歩歩み出た。
「やあ、いらっしゃい。私は文哉(ふみや)・アッカーソン。よく来てくれたね」
大人の男、といった表現は彼のためにあるに違いない。白い無地のズボンに薄い青色のシャツが、彼の巨躰を爽やかに纏めている。整った身なりであるが、決してかしこまりすぎた印象ではない。肘まで無造作に捲られた袖からは彼の遊び心を感じる。
「はじめまして、内島無人と申します。このたびはお招きありがとうございます」
この島の主人、文哉・アッカーソンは巨大な手で一人一人握手を交わすと、オレたちにソファを勧めた。そこにはもう一人の男。長いソファに上向きに身を横たえ、顔の上に開いた本を乗せたまま、どうやら眠っているようだった。
「ああ、すまないね。里来(りく)、起きろ。さぁ、靴を履いて」
館の主人がその人物の黒髪に無造作に指先を突っ込むと、やられた方は肩を跳ねさせ、飛び上がるように身を起こした。顔の上の本が転がり落ちる。
「てめぇ、びっくりしただろうが」
ひどい口調とは裏腹に、整った顔立ちをした男だった。滑らかそうな肌に、髪はさらりとしている。美人、と言って相違無い。
「わざとだよ、里来」
文哉は悪びれもせずそう言い、扉の横で待機していた使用人たちに目配せをした。イズミとヒュウガは一礼し、入ってきた扉から出ていく。
オレは毛足の長い絨毯に落ちたままの本を拾い上げた。古めかしい革張りの、すえたにおいのしそうな本だった。
「あの、これ」
怠そうに頭を掻き、素足を靴に押し込んでいた里来という男は、のろのろと顔を上げ、オレの顔と差し出された本を一瞥した。
「悪いな」
長細い指が本を掴んで持ってゆく。体格は(たぶんオレたちの中で一番小さい伊織より)小柄だが、弱々しくはなく、その風貌や雰囲気から、年齢は幾分上だろうと感じた。
オレたち三人は館の主人たちと斜めに向かい合う形で、ソファのL字型の片辺に並んで腰掛けた。ソファは大きく、ゆったり十人は座れる広さだ。
入ってきた扉の向かいに据えられた扉から、入室許可を求めるノックが聞こえた。文哉は快諾し、扉から一人のポニーテールのメイドが台車を押して入ってくる。彼女はソファの横で止まり、深く一礼した。
「お飲み物をお持ちしました。コーヒー、紅茶、ジュース類など、一通りそろえてございます」
そのとき、外の廊下から、なにやら騒がしい声が聞こえてきた。一つは女、もう一つは男のものであるようだ。
バタン。
「どうもどうも、学生さんたち」
二枚の扉を両手で勢いよく開け、快活そうな眼鏡の女が登場した。彼女はけらけら笑い、大股でこちらへ近づいてくる。その後ろを、痩身中背、髭面の男がポケットに手を入れたまま疲れた様子で歩く。
女はメイドに「私、烏龍茶ね」と言うと、文哉たちの方でなく、こちら側の辺の端に勢いよく腰を下ろし、脚を組んだ。香水の匂いが仄かに、一瞬だけ香る。隣となった幸一が、ホットパンツから惜しげもなく晒される彼女の脚にぎょっとした様子で、視線を迷わせたまま会釈した。
「若者たちよ、ダイビングの予定はあるかい」
「は、はいっ。海が綺麗なのでぜひ潜りたいと」
声を上擦らせて幸一が答える。
髭面の男は、テンション高く騒がしい女を、落ちくぼんだ目で横目に見つつ、文哉と里来の後ろからソファの背に凭れた。
「あいつ夜型だからなかなか起きなくて。まいったぜ」
「すまないな、東郷(とうごう)。助かるよ」
「おい、髭面。煙草くせぇぞ」
「これぐらい許せよ。お前の前じゃ吸ってないだろ、里来」
先程のポニーテールのメイドが飲み物の注文を聞いて回った。
ガラスのローテーブルに飲み物と菓子が出揃い、一息つくと、文哉は使用人を全員集め、ソファの横に並ばせた。
「向かって左からイズミ、ヒュウガ、チトセだ。ここにいる間、なにかあれば頼ってくれ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
オレたちは、礼儀正しい佇まいで微笑む三人に頭を下げる。
「それで、こっちの三人は私の友人なんだ。東郷正孝(とうごうまさたか)に箱空里来(はこそらりく)、彼女が三日月杏子(みかづききょうこ)。互いに仲良くしてくれると嬉しい」
「はい、こちらこそ」
「ちなみに、里来は小型船舶、杏子はダイビングの免許を持っているから、遊びに必要だったら誘うといい。ああ、あと東郷は釣りが上手い」
「取ってつけたような言い方だな」
不満げな男は髭を指先で掻きつつ、唇を尖らせた。里来が、は、と短く笑う。擁護するようにイズミが、
「東郷様のお力で厨房の生け簀は賑やかでございます。今はトラフグが五匹も」
「観賞用サイズだがな」
「うるせぇ、里来」
軽口を叩き合う友人たちを横目に、やや苦笑して文哉は続ける。
「館内はどこでも好きに使ってくれていい。必要ならば案内させよう。外は少し注意が必要な場所もある。イズミ、地図を頼めるかい」
「かしこまりました」
イズミは壁際に置かれたチェストから筒状の紙を取り出した。黄ばみの無いところを見ると、この地図は新しいようだった。
「西側は切り立った崖になっているからあまり近づかないように。ここには島全体の電力をまかなうソーラーパネルが設置されている。もちろん、これにも触らないよう」
「わかりました」
三人で、ほぼ同時に頷いた。
「火山の近くは足場が悪いから気を付けて。約一世紀前の噴火を最後にまったくの沈黙を続ける休火山だが、登らないのが賢明だ。誰かが登った前例が無いのでね」
「バカンスといえば海だよ、海」
杏子が興奮した声を上げた。彼女はソファの背に片肘を乗せ、後頭部で団子状に纏めた髪をいじっている。文哉は彼女に曖昧に笑いかけ、地図に目を戻した。
「忘れていた。島の東側、この辺りで湖と新館を建設予定なんだ。広く穴が掘ってあるから、落っこちると大変だ」
語尾にからかいを滲ませ、文哉は肩をすくめる。彼の楽しげな視線の先には、むっつりと口を結んだ里来がいた。
「落っこちたんじゃねぇ。自分から下りたんだ」
「君を引き上げるのに苦労したよ」
「てめぇが機材を中途半端で撤収するからだ」
「リゾート地にクレーン車があったら興醒めだろう」
彼らのやり取りをきょとんと眺めていたオレたちに杏子が横から救いの手を差し伸べた。
「先週一週間は、抽選で当たった別の三人組――女の子たちの三人組が来てたんだけどね、そのうちの一人が穴の中に帽子を落としたんだ。それを取りに里来が穴へ降りて、結局上がれなくなって」
あはは、と彼女は途中で笑い出す。
「文哉と東郷でロープを降ろして引き上げたんだ。このクソ暑い炎天下でさ」
笑いを抑えきれない杏子を、里来が睨み付けた。半開きの口からは今にも罵詈雑言が飛び出しそうだ。
気を利かせた伊織が慌ててフォローにまわる。
「優しいんですね。危険を顧みず、穴に飛び込むなんて」
「後先考えねぇだけだろ」
ソファの向こう端にいた東郷が呟いた。里来の眉間に皺が寄る。
「はは、すまない。私が悪かった。さて、年寄りの話はこれで終わりに……」
文哉は降参と言わんばかりに両手を上げた。里来が舌打ちし、
「ズラ野郎」
「……待て、誤解だ……」
一瞬、居間がしんと静まり返る。その沈黙の中、麦茶を飲み終えた幸一のガラスのティーカップが、小気味良い音を立ててソーサーに乗った。静寂を邪魔したその音を誤魔化すように、幸一が口を開く。
「あの、お茶、ごちそうさまでした。うまかったです。あー、濃さ、とか……ちょうど良くて」
全員がなんとなく幸一に注目した。彼はまだ何か言うだろうか、そんな表情だ。
いくつもの視線に射られた幸一があたふたすると、杏子が馬を宥めるがごとく、幸一の肩を叩いた。
「君、なかなかズレてて素敵だよ」
「はぁ」
パン。
文哉が一つ手を叩き、空気を切り替えた。
「イズミ、彼らを部屋へ。諸君、この一週間、有意義に過ごしてくれ。特に決まり事も無いが、そうだな……さしあたって夕食は……」
「本日は屋外でのバーベキューを予定しておりますので、少々早めの六時となります。ビーチにお集まりください」
ヒュウガが言葉を引き継いだ。
「それでは、夕食時にまた会おう。私はいったん失礼する」
文哉は立ち上がり、廊下の方へ出ていった。
主人がいなくなると、彼の友人たちもばらばらと散っていく。オレはいつの間にか、革張りの本を持った〝彼〟の背を目で追っていた。
さっきの(ズラの件)……なんという爆弾発言だ。
「お部屋へご案内いたします」
イズミが形の良い唇を弓なりにしならせた。オレたちは荷物を持って立ち上がる。並んで立ったヒュウガとチトセの前を幸一が通過するとき、チトセは小さな声で「お粗末様でした」と言った。