あおい潮の風味。鼻から吸いこんだ空気は、どことなくしょっぱく目頭に染みる。
その人物は海を見ていた。迫りくる海風に身を委ね、船一つ浮かばない遠い水平線を見渡しながら、ぽつり……夢うつつのぼんやりとした表情で、
「いよいよだ……」
腕を下げたまま、脚の横で拳が握られた。爪が手のひらに食い込む。能面を張り付けたような風貌の内側で、その人物の決意は熱く煮えたぎっていた。
これから起こる悪夢のような出来事はすべて、その人物の〝新たなる人生〟のために必要不可欠なのである。計画は概ね万全。古今東西の推理小説(ミステリ)を読み漁り、長い時間をかけてトリックを考えた。
躊躇いは一切無い。多分……無い。
右手を胸に当て、潮風を深く吸う。顔を上げれば、雲一つ浮かばぬ真っ蒼な空に突き刺さるように、強烈な太陽が輝いている。その煌々とした真夏の王者に目を細め、ゆっくりと息を吐きながら、再び海に視線を投げる。陽光を受けた海面は、手前の方からずっと向こうの水平線まで、白く反射してきらきらと道のように見える。
もうすぐ、船が着く。そうしたら、休む間もない一週間が始まるだろう。
これが最後の安らぎとばかりに、その人物は目を閉じた。遠くで海鳥が鳴いている。鼻を抜ける潮風はやはりしょっぱい。
人生が掛かっているのだ。自分だけでなく、自分がこれから手に掛けるであろうすべての人の人生が。
胸に置いた手が、小刻みに震える。
「情けない」
自嘲に引き攣った笑いが口元に浮かぶ。だがすぐにそれを噛み殺し、しかと目を見開いて前方を睨んだ。
こんな人生は終わらせてやる。そして必ず、新たな人生を掴むのだ。
歯を食いしばり、もう一度強く拳を握りしめる。突き刺す陽射しが、ぴりぴりと肌に心地よい。もう、震えは止まっていた。
そのとき、背後に近づく足音があった。その相手は、もうすぐ船が着くらしいと伝えに来たようだった。
「わかった」
いつもと変わらぬ声音で、海を見たまま答える。能面は、はらりはらりと砕け落ち、白塗りされた檜木(ひのき)の下から熱い皮膚が蘇る。固まっていた唇が柔らかく動くのを確認するとその人物は、催促する相手の方へ、海風と共に振り返った。
さぁ、始まりだ。