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第一話  地獄の沙汰も天使次第(後編)

  〈地獄の沙汰も天使ボク次第(後編)〉



 殺意に導かれた天使ボクジャッキーは、轢き逃げに遭い意識不明のまま入院している男─蓮人れんとに出遭った。

 彼の許には恋人の真澄ますみと親友の柊平しゅうへいが、毎日見舞いに通っている。

 蓮人を殺したいのはどっちだ?

─仕方無い。

 を使うか──



 殺してやりたい。

 殺してやりたい。

 殺してやりたい。


 頭の中でそれだけがグルグル回り続ける。

 それだけを思い続けて、毎日毎日病室に通う。

 十八歳でキャバクラに勤め始めて五年が過ぎ、最近は完全な夜型生活になってしまったわたしは、今日も陽が沈み始める時間に目が覚めた。急いで蓮人さんの病室に向かう。今日もきっと柊平さんが来るだろう。彼よりも、誰よりも早くに行かなくちゃ……昨日は思いがけない二人組もいて何も起きなかったけれど、今日こそ──


 殺してやりたい。


 泣きそうな気分で病室に入る。

「え……?」


 ベッドの上には誰もいなかった。



 生ぬる朧夜おぼろよの底、俺は国道を原チャリで飛ばす。

 雨こそ降っていないが、空気中の湿度は昨日より高い。前方の交差点に軽トラックが停まっているが、信号もテールランプも春霞はるがすみに赤くにじんでいる。

 …いや、もしかしたら俺の目に霞が掛かっているのかもしれない。大事な事が見えていなかった役立たずの目。距離感が掴めず、うっかりするとこのまま軽トラの荷台に激突してしまいそうだ。それならそれでもいいが……

 いや、まだだ。まだ早い。

 キャップ型のヘルメットなので、顔から水がしたたっている。てのひらで拭ったそれに涙は混じっていないと自分に言い聞かせて、俺は青信号に変わった交差点を左折した。目の前に病院が見えてくる。

 あの寒い病室で蓮人アイツが眠っている。

 俺は行かなくてはならない。

 昨日のおかしな二人組は、真澄を遠ざけてくれただろうか──


「柊平さん!」

 もうすぐ病院の正面玄関に着くという所で不意に名前を呼ばれて、俺は慌ててブレーキを掛ける。路肩にバイクを寄せて振り返ると、脇の歩道に真澄が立っていた。背後は公園の雑木林だが、街灯も無く真っ暗な場所なので気付かなかった。

「ど、どうしたの?病院に行かないの?」

 言いながら見れば、彼女は顔面蒼白で震えている。

「行ったの!でもいなかったっ…」

「えっ?」

「蓮人さん、ベッドにいなかったのよ!」

「……死んだ…のか…?」


「蓮人は意識を取り戻して、退院したんだって」


 そう言いながらパーカーの少年─テンちゃんが、正面玄関の方から歩いてきた。二人共先に病院に来ていたのか。

 しかし、退院だと……?

 真澄が取り乱す。

「どうしてっ?どうして何も言わずに行っちゃったの?どこに行ったの蓮人さんっ……わたしを置いていかないでよぉっ!」

「ボクが看護師から聞いた話だと、蓮人は『轢き逃げの犯人を知ってる』って言ってたそうだ。それで警察に知らせなきゃって…」

「どこ?どこの警察っ?」

「そこまでは分からないけど……」

 そんな…まさか……

 ハンドルを握る手が震える。


「あっ、あれっ……」

 真澄が叫び、公園の中を指差した。

 雑木林の向こう、200メートル程先の遊歩道を進む影。

 昏く霞んで判別出来なかったその顔が、薄暗い街灯の真下で照らされた。

「蓮人さん!」

 間違いない。

 白いスプリングコートを着た蓮人が歩いている。

 本当に快復したんだ──


 テンちゃんが呟く。

「確か公園を抜けた国道沿いに交番があったな…」

 刹那、俺はアクセルを手前に思い切り回し、歩道を走った。ハンドルを左に切って公園の入口に進入する。背後から真澄が何かを叫んでいるが、それを掻き消す様に叫び返した。

「蓮人を殺しに行かないように、その女を捕まえとけ!」 

 そう、病室ではずっと三すくみの状態だった。それが遂に崩れたのだ。

 俺の原チャリがそのまま遊歩道に乗り入れると、ライトで照らされた蓮人がハッと振り向いた。

「蓮人、お前狙われてるぞ!今そっち行くから待ってろ!」


 そう言って俺は──スピードを緩めずに突っ込んでいく。


 俺の意図に気が付いたのか、蓮人は逃げようときびすを返す。

 逃がすものか。

 間もなく追い付いて一気に撥ね飛ばそうとしたが、蓮人は脇のくさむらに飛び込んでかわしやがった。勢いでこちらも体勢を崩し、遊歩道上に点々と置かれているベンチのひとつに接触して倒れる。

「くそっ…」

 その隙に蓮人は叢から出て、遊歩道を駆けていく。やはり向こう側の国道に出るつもりだ。行かせるか。俺は原チャリを起こすがエンジンが止まっている。何度かスターターのボタンを押している間にも蓮人は逃げていく。逃さない──今度こそ。

「待てえっ…!」

 エンジンが掛かった。アクセル全開で追うが、蓮人は間もなく遊歩道を走り切ろうとしている。その先の国道まで100メートル…50メートル…10メートル……


 見てろ、未彩みさ──!


 ゴッ。

 ガシャッ。

 バキバキッ……

 国道に出る直前の歩道で蓮人を捉えた。

 背中から突っ込んだ原チャリとガードレールに挟まれて、蓮人の肉が潰れ骨がきしむ。そのまま俺達はもつれる様にガードレールを飛び越え、原チャリ共々路肩に放り出された。

 俺は原チャリから転げ落ち、右腰をアスファルトに叩き付けられる。激痛にうめいていたら、視界の隅にヨロヨロと起き上がる蓮人が見えた。まだ生きているのか。口からゴボゴボと大量の血を吐き出している。手も脚も折れ曲がっていて、這うのがやっとの様だ。俺は横倒しの原チャリを再び起こして、もう一度エンジンを掛ける。そして路肩に赤い体液の筋をヌメヌメと引きずる蛞蝓なめくじに向かって、ハンドルを切った──


「死ね、蓮人ぉ━━っ!」


「やめてええ━━━━っ!」


 飛び出してきた真澄が両手を広げて立ち塞がる。

 俺が殺したいのは蓮人だけだ。

 慌ててブレーキを掛けると、原チャリはつんのめる様にバランスを崩した。車体はうずくまる蓮人をかする様に横転し、俺は再び路上に放り出される。体中が痛い。

「大丈夫かっ?」「怪我はっ…」

 車線を走ってきた他の車が次々に停まり、降りてきた運転手が俺と蓮人に声を掛けてくる。救急車を呼ぼうとスマホを取り出す。

「ああ大丈夫。ボクらで病院連れてくよ」

 パーカーのポケットに両手を突っ込んで悠然と歩いてきたテンちゃんが、何気ない口調でそう言った。そのあまりにも場の緊迫感にそぐわない雰囲気に一同が呆気に取られていると──

 蹲っていた蓮人が立ち上がった。

 そして倒れている俺を、折れた人差指で差す。

「この人はあたしが運ぶから任せて♪」


 それは蓮人ではなく、あのジャッキーという女だった。


 格好も昨日と同じミニスカートで、さっきまでのコート姿ではない。

 その女が体中バキバキの血塗れで、爽やかに笑っている。

 ブラブラしていた人差指が千切れて地面に落ちたが、「あらあら」と言いながら拾って、元の場所にくっつけた。瞬時にくっつく指。

「うわっ?」「ひえっ?」

 運転手達は悲鳴を上げて自分の車に飛び乗り、次々に発進していった。

 俺は体の痛みも忘れるほど、完全に思考停止していた。目の前の女はさっきまで確かに蓮人だったのだ。何故?どうして──

 その蓮人だったモノが俺の背後に声を掛ける。

「大丈夫?真澄ちゃん」

 ハッとして振り返ると真澄が立っていた。原チャリの前に立ち塞がった位置のまま、今は両手を下ろし、背中を向けて俯いている。正面衝突こそ避けられたが、それでも轢いてしまったのではと思っていた。しかしどうやら無傷だった様だ。


あんただったか」

 気が付くと、傍らでテンちゃんが俺を見下ろしていた。笑ってる…?

 春霞ソフトフォーカスに包まれて柔らかく煌めく天使の微笑。

 そんな見ているこちらが幸せになる様な尊い笑顔で、彼は言った──


「さあ懺悔の時間だ、人殺し野郎」



 カツン……カツン……

 薄暗い病院の廊下を並んで歩くボクと真澄の後ろに、柊平とジャッキーが続く。

 左脚が折れている柊平は松葉杖を付き、ジャッキーが背中を支えていた。甲斐甲斐しく「大丈夫?」とか声を掛けているが、それは応急処置をしてくれた医師と看護師がこの女に対してずっと思っていた事だろう。見た目は柊平よりよほど重傷なのだ。それが血塗れの顔をザバザバ洗っただけでケロッとしているのだから、病院関係者が処置後にそそくさといなくなったのもまあ当然だろう。服の血はまた地獄の基本色─黒に馴染んで目立たなくなっている。公園の木の枝に避難していたぬえも肩の上に戻っていた。

 柊平はすっかり魂が抜けた様な虚ろな声でジャッキーに問いかける。

「一体どういう事なんだ…確かにあんたは蓮人だったのに……それが一瞬で……」

「ああ、それはテンちゃんのお陰♪」

 背中に視線を感じたので、ボクはポケットに突っ込んでいた右手を出して肩まで上げた。

 指先には紫色の羽根をつまんでいる。

「大天使ラミエルの羽根だ。幻視を司る天使なんでね、その羽根だけでも短時間なら幻を視せる事が出来る。これで視せたい姿を思い浮かべながらその対象をサッと撫でればいい」

「それで…この人が蓮人に視えた…?」

「凄いよね〜そのお腹のポケットって天国に繋がってて、好きな秘密の道具を出せるんだって!あたしなんて何にも支給されてないのにぃ〜」

「地獄の様な職場と鬼の様な上司だからな。

 でもその分お前、まあまあ不死身だろ」

「ウフフ、そこは自信あるんだ♪今回も役に立ったでしょ?キミが頭と秘密兵器を使う分、あたしは体使わないとね。

 でもやっぱりいいな、その異次元なポケットぉ〜」

 羨ましそうに言うジャッキーだが、下級天使がそんな優遇をされる訳がない。これはただのポケットだ。最初に鬼に説明するのが面倒くさくて嘘をついたら、すっかり感心して言う事を聞くようになったのでそのままにしている。

 実際にはこんな天使の羽根が各種入っているだけで、しかも下級天使のボク達に支給される羽根は要は上級天使の、だいぶ霊力ちからが弱く、一回使うとしばらく天日干ししないと効力が復活しない。猫型ロボットのチートアイテムというよりせいぜいカプセル入りの怪獣だ。おまけに使ったら後は細かい報告書を提出しなければならないという、なるべくなら使いたくない飛び道具である──羽根だけに。

 チラリと振り返って見ると、柊平は呆然としていた。天使だの鬼だの人智を超えた内容も、様々目の前で見せ付けられた今となっては受け容れるしかないだろう。

 やがて辿り着いた蓮人の病室の前で呻く様に呟く。

「…じゃあ蓮人が病室ここにいなかったってのも、その羽根の幻だったんだな。俺はまんまと罠に嵌ったのか……」 

「意識不明の蓮人ヤツにトドメを刺そうとしてるくらいの強い殺意だ。これまでは常にかち合う見舞い客を警戒して実行できなかったとしても、殺したい相手が快復して逃げたとなったら、カッとなって行動を起こすんじゃないかと思ってね。それで柊平あんたと真澄、どっちが犯人かもハッキリするし、一石二鳥だろ?

 はまんまとそれに引っ掛かった訳だ」

 そう言うボクを柊平は睨み付けてくる。

 生意気なので畳み掛けてやった。


「そもそも蓮人を轢き逃げしたのもあんただろうが。

 それで警察に行くって聞いて、バレると思って余計に慌てたんだろ?」


 睨んでいた目が丸くなった。

「な、何言ってんだっ…そんな証拠どこにある?」

「あるさ。あんた、ちょうど国道に出た所で蓮人の姿のジャッキーに原チャリぶつけただろ。その時のが、轢き逃げ事故の時のと一致したんだ。国道にはがあったからさ」

「システム?エヌシステムか?

 言っただろ、轢き逃げ事故の時、Nシステムにはナンバーも運転手も映ってなかったってっ──」 

「誰がNシステムって言った?

 記録されたのはあんたのだ」

「はあ?」

「交通事故は馬車の時代からあったけど、人間共が自動車なんてに乗り始めたから死亡事故が急増したろ?地獄の交通裁判も増え過ぎて大変なんだよ。それでNシステムがナンバーを記録する様に、殺意を記録しとけば証拠集めも楽になるだろうって開発・導入されたのが〈自動車マーダー自動読取装置〉なんだ。これも地獄の負担を減らそうという取り組みの一環でね。

 あの世の裁判でも現世と同様に、交通事故の罪状と量刑は運転手の行動で変わる。危険運転や飲酒運転、事故後に救護活動せずに逃げるのだって、それはもう立派な殺意だよ。『パニックになって逃げ出した』とか『殺すつもりはありませんでした』とか誤魔化すヤツも、殺意の記録が残ってれば妄言うその罪も加わって、より深い地獄に叩き堕とせる。形の無い殺意は人間の裁判ではなかなか明確な証拠に出来ないけど、こっちには感知できるヤツがいるからな」

「けぇ」

 ボクの言葉に応える様にぬえが啼いた。

「そのぬえの能力を封じ込めたシステムを、Nシステムに紛れ込ませて主要な道路に設置してるんだ。そこで記録された殺意はデータベース化されていて、近くにいるぬえはテレパシー的な能力でそのデータにアクセス可能。それで自分が感知した殺意と、過去の殺意を照合、個人を特定できるんだ。殺意の波形ってのは指紋同様人それぞれで、同じモノはひとつも無いからね。

 という訳で通称〈ぬえシステム〉」

「けぇ」

「その照合の結果、さっきあんたが轢き殺そうとした時の殺意と、轢き逃げの時に記録されていた殺意の波形パターンが一致したんだ。これでもまだシラを切るか?」

「……」

 柊平は観念したのか目を閉じて俯いた。

「あんたは蓮人を轢き殺そうとしたが失敗、その時使った黒い乗用車は即座に処分して証拠隠滅したんだろ。それでも懲りもせずこの病室に通っては、ずっと息の根を止めるチャンスを窺ってた訳だ。

 あとは動機だが…親友なんだろ?何でそこまでの殺意を抱いたんだ?」

「……」

 柊平は俯いたまま答えない。

「いいのか?これで蓮人がこのまま意識が回復せず死ねば、あんたの殺人は成立する。地獄ツアーの予約は完了、お一人様ご案内〜で、こちらとしてはまあそれでいいんだが、動機次第では情状酌量が無い事もない。まあ地獄のフルコースの品数が若干減るくらいだが……何かの恨みか?貸した金を踏み倒されでもしたか?」

「………」

 やはり返事は無い。


「未彩ちゃんの為…ですよね?」

 それまで黙っていた真澄が呟き、柊平は弾かれた様に顔を上げた。

「お、お前っ…何故未彩を知ってるっ?

 妹と何の繋がりがっ……」

「なるほど──


 


 ボクの言葉に、柊平の表情かおは驚愕と恐怖がぜとなった。

「元々気になってたんだ。あんた、真澄がストーカーで、蓮人を殺そうとしてるって言ったよな?何故を知ってる?蓮人がストーカー被害に遭ってた詳しい事情をさ」

「そ、それは蓮人に聞いて…」

「蓮人は恋愛に関しては秘密主義で、親友の自分にも何も話してなかった──そう言ったのはあんただろ?蓮人が事故に遭う直前一緒に呑んだ大学の同期も、ストーカーが原因で婚約破棄になった事は聞いてないんだよな?」

 しまったという顔で柊平は黙る。

「となるとストーカーについてあんたは被害者からではなく、から事情を聞いたという事になる。身近にそのストーカーがいるんだろうと思ってたけど、そっか、妹か……」

 柊平の顔が歪む。そこにはさっきまでとは違う感情が顕れていた。強烈な怒りだ。

「ああ、そうさ!蓮人アイツは妹を…未彩をたぶらかして、夢中になっちまった未彩に結婚をチラつかせては散々貢がせて、挙げ句に玉の輿に乗る為にあっさり捨てやがったっ!

 未彩は…アイツに『まだ家庭を持つ自信が無いから』って言われるがままに、妊娠した子を中絶までしたのにっ……」

 その妹の恨みが動機という訳か。

 柊平を支えるジャッキーが悲痛な表情かおになっている。鬼のくせに同情し過ぎだ。

 柊平は真澄の背中に問いかける。

「それで結局あんたは誰なんだ?何で未彩を知ってる?」

「それは…この春知り合って……」

「じゃあ未彩から蓮人の事を聞いたのか?それなら未彩がどんな酷い目に遭ったかも知ってるんじゃないのか?それで何で毎日見舞いに来ていた?何で蓮人ヤツを轢き殺すのを止めたんだっ…!」

 質問は詰問へと変わっていったが真澄は答えない。

 ボクは蓮人の病室のドアを開けた。

 途端、柊平が戸惑った様な声を上げる。


「え…じゃないか…?」


 彼の言う通り、蓮人は昨日までと変わらずベッドに横たわっていた。

 心拍計の信号音だけが室内に響く。

「こっちも幻を視せる羽根とやらの効果が消えたのか?それとも…」

 柊平は前に立つ真澄に再び鋭い声を浴びせた。

「もしかしてあんた、この連中とグルだったのか?それでずっと俺を見張ってて、今度は蓮人コイツが退院したって嘘をついて俺を罠にっ…!」


「何言ってるの…じゃない……」


 そう言って振り向いた真澄は明らかに怯えていた。

 異変を感じたのか柊平も次の言葉を呑み込む。

 代わりにボクがゆっくりベッドに向かいながら言った。

「〈耳なし芳一〉って知ってんだろ?平家の怨霊に取り憑かれた琵琶法師が墓場で毎晩ライヴさせられて、もう限界って坊さんに泣きついてさ。体中に梵字─般若心経を書いて怨霊から視えない様にしてもらうんだけど、耳だけ書き忘れて千切られちゃうってヤツ。

 そのありがたいお経と同じ効果がにもあって──」

 そう言って蓮人の胸の上に載せていた茶色い羽根を摘み上げた。

「例の、死者を司る大天使アズラエルの羽根だよ」

 真澄が小さく悲鳴を上げた。

「蓮人さんっ…」

 口に両手を当てて固まる真澄。

 それを柊平が震える手で指差す。

「耳なし芳一と同じって…まさか……このコに蓮人が視えなかったのは……」


「勿論、からさ」


 不意に真澄の周りが昏くなる。

「言ってたろ、真澄は接待力の塊みたいなのに、柊平あんたの上着は脱がそうともしなかったって。そりゃそうだよ、霊が生身の人間に触ったってすり抜けるだけだ。さっき、みたいにね。その点、天使ボクは生者にも死者にも関われるから、パーカーだって脱がせられるさ。その後ハンガーとかには触れないから困ってたみたいだけど。

 情緒不安定なのも仕方ないさ。実体をくした精神体なんだから、精神的昂揚とか精神的動揺とかがそのまんま表に出る。だから笑ったり泣いたり怒ったりの感情の起伏が不自然で極端になり、違和感がある訳だ。生きてる人間はあんまり『イヒヒヒヒ』って笑ったり、『恨めしや〜』って泣かない。

 そんな精神体としての霊が人の姿を保てるのは、人間の思考や感情が電気信号だからだ。それによって磁気が発生し、立体映像ホログラム的に霊体を形成する。しかし昼間は太陽の影響で地球自体の地磁気が強まり、微弱な霊の磁気は乱されて、自身の姿形を上手くビジュアル化できないんだ。だから霊は昼間は動けず、完全なになる。それで見舞いに来られるのも夜だけって訳さ。

 当然腹も減らないし…あと病室ここって寒いだろ?霊は周囲の生体エネルギーを吸収しようとするからさ、そのせいで寒かったんだ」

「霊…幽霊……?」

「だから助かったよ、幽霊の目を誤魔化すならアズラエルの羽根が使える。ラミエルのは蓮人の幻に使っちゃったからさ」

「そ、そんな…だって、足も普通にあるじゃないかっ!」

「あー…幽霊に足が無いって思ってるのは日本人くらいだ。そういう幽霊画を描いた円山応挙のせい。それも枕元に立ったかつての奥さんの霊を慌ててスケッチしたら、途中で消えて足まで描けなかっただけって説もあるそうだからね。まあ、テキトーだよな、人間のやる事は」

「それじゃ…それじゃ俺はこの病室でずっと幽霊と過ごしてたのか?幽霊なんて今まで視た事なかったのに……」

「……」

 柊平は青褪め、真澄は立ち尽くす。それぞれ黙り込む生者と死者。

 そういう訳でボクも、そして勿論ジャッキーにも、真澄が幽霊である事は分かっていた。ジャッキーが接してみて『いい』と言っていたのは『〈悪霊〉ではない』という意味だ。悪しき霊は霊能力者の様な自分の存在を認識できる相手を嫌がるものだが、鬼とガールズトーク出来るならそりゃ違うだろう。そして病室から出られるという事はこの場所に取り憑いた〈地縛霊〉でもない。現世をフラフラ彷徨う〈浮遊霊〉だ。

 しかしそれでも蓮人に殺意を抱いているのが真澄なのか柊平なのか、断定は出来なかった。浮遊霊でも特定の人間を強く恨めば、り殺す事は可能である。だから両方に罠を仕掛ける事にしたのだ。

 ジャッキーがポツリと言う。

「真澄ちゃんのワンピース、サンドベージュって言うんだけど濃いベージュでしょ?

 この色使うのってなのよね。

 つまり彼女が亡くなったのはって事よ」

 そう、大抵の霊は死んだ時の格好で化けて出るのだ。

 柊平が掠れた声を絞り出す。

「じゃあ…あんたがこの春、未彩と知り合ったってのは……」

 真澄がようやく振り向き、真っすぐ柊平を見つめた。

「ハイ、知り合ったのはです。

 一ヶ月ちょっと前、三途の川の賽の河原で知り合ったの。

 わたしも未彩ちゃんも蓮人さんに捨てられてしたから、関連があるって事で地獄の裁判を待ってる場所が近かった。時期は違うけどね。

 わたしは去年蓮人さんにフラれた後しばらく寝込んでて、秋に婚約したのを知ったショックですぐ、お店のあるビルから飛び降りちゃった。

 でも未彩ちゃんはフラれても粘ってストーカーになって、婚約を知っても挫けずに破棄させて…でもそれで虚しくなったんだって。それで春になってすぐ、睡眠薬んじゃったって……」

 やはりそうか。

 柊平があそこまでして恨みを晴らそうとするからには、妹は死んでいるだろうと思っていた。

 そして前に言った通り、初七日後に行く賽の河原は先の審理の順番待ちで死者が溢れている。自殺した時期がズレている真澄と未彩がそこで出遭ったのも不思議ではない。

 柊平の口元が引きった様に歪む。

「そうか…あんたも蓮人のだったのか……じゃあ分かるだろ?未彩の未練も俺の恨みも分かるだろ…?」

「…未彩ちゃん、ずっと言ってたんでしょ?

『殺してやりたい…殺してやりたい…』って。

 それを柊平さんはずっと慰めて、励まして……でも未彩ちゃんは死んじゃった。

 未彩ちゃん、話してました。お通夜の時に貴方があのコの枕元で『仇は取ってやる』ってずっと言ってたの、聴こえてたって……」

「そうさ…俺は…未彩の代わりに俺はっ……」

 柊平は真澄の向こうの蓮人を睨んだ。

 その目に狂気が宿る。

 ジャッキーの肩の上のぬえがビクリとふるえた。


「殺してやるっ……!」


 真澄が再び両手を広げて、柊平の前に立ち塞がった。


「何だっ…何で邪魔をするっ?あんたも蓮人を憎んでるから化けて出たんだろっ?」

「未彩ちゃんは確かに賽の河原でも『殺してやりたかった』って言ってた。でもそれはとっても悲しそうで、寂しそうだったの。あれはホントに殺す気は無かったと思う」

「うるせえっ、どけっ、このオバケっ!」

 悪態をつく柊平にボクは冷たく言い放つ。

「『殺してやる』と『殺してやりたい』は全然違うからな。『殺してやる』は意志─まさに殺意だけど、『殺してやりたい』は願望に過ぎない。あんたの妹は叶わない、叶えちゃいけない願いを吐き出していただけだ。

 あんたがやるべきだったのはそれを真に受けるんじゃなく、忘れさせてやる事だった」

「違うっ!蓮人を殺さなきゃ未彩は成仏できないんだ!」

 口から泡を吹いて狂った様に叫ぶ柊平を、真澄は黙って真っすぐ見つめていた。どちらが亡者か分からない。

 やかて真澄は静かに語り始めた。

「……三途の川を眺めながら二人で話してる時でした。

 突然、未彩ちゃんが着てたピンクのカーディガンが後ろから脱がされたの。

 ビックリして振り返ったら、体の大っきなお婆ちゃんがカーディガン抱えてニタニタしてた。それで後ろに向かって『ハイよ、あんた!』って叫んで、そのカーディガン投げたの。そしたらそれをやっぱり大男のお爺ちゃんが受け取って、側にあった木の枝に掛けてね。『結構枝がしなっとるのう。ネエちゃん何やった?』とか言って……」

 話に出てきたのは奪衣婆だつえば懸衣翁けんえおうという夫婦で、三途の川のほとりで死者の衣服を使ってその罪を判定する鬼の眷属けんぞくである。彼らもボク達と同じ公判前整理手続きの担い手と言えるが、剥ぎ取った服を〈衣領樹〉という大樹に掛けて、その枝の撓り具合で罪の重さをザックリ量るだけだ。どこまで後の審理に役立っているのか疑問はあるが、ストーカーをしていた未彩のカーディガンはそれなりに重かっただろう。

「それでね、未彩ちゃんが蓮人さんの名前を出して事情を話したら、そのお婆ちゃんとお爺ちゃんは顔を見合わせたわ。二人はその名前を最近聞いた気がするって言って、そして思い出した。

 それは轢き逃げに遭って死にかけて、いったんに来そうになった霊魂ヤツ──

 その瞬間、未彩ちゃんが叫んだの。

『お兄ちゃんがやったんだ!』って。

 そして泣き出した。

 お兄ちゃんを止めなきゃって。

 自分が余計な事言ったからだって……」

「嘘だっ!」

「でも未彩ちゃん、カーディガン脱がされちゃってるから、もう賽の河原から動けないんだって。で服を脱いだり、何か食べたり、生活感のある事したらかえれなくなる決まりだって…」

 それがあちら側のルールだ。かつて伊邪那美命いざなみのみことが黄泉の国の食べ物を口にして、現世に還れなくなったのと同じである。

「だから、わたしが来たの。

 例のお婆ちゃんとお爺ちゃんに相談したら、最初は渋ってたけど、あの二人、割とお金にがめつくて。三途の川の渡し賃は六文らしいんだけど、結構それを誤魔化して自分達のふところに入れてるんだって。だからわたしが着けてるこのネックレス、後であげるって約束したら、河原をこっそり抜け出させてくれた。どうせ死者ひとで溢れてるからバレないって…」

 何だ、ジャッキーはボクが冤罪でもいいから地獄に堕とそうとしたのを咎めてたけど、地獄そっちの連中もテキトーな事してるじゃないか。四十九日の間の死者はまだだから彼岸あっち此岸こっち浮遊フラフラするのはそりゃ可能だが、がプラチナのネックレスとは……

 真澄は柊平の目を真摯に見つめ続ける。

「だから、わたしは蓮人さんを恨んで化けて出たんじゃないの。

 わたしは貴方を止めに来たの。

 未彩ちゃんの代わりに止めに来たの」

「嘘だ嘘だ嘘だっ…」

 真澄の目から涙が溢れた。

「柊平さんにわたしが視えたのは、きっとわたしが未彩ちゃんのを預かってたから。

 未彩ちゃん、言ってた。


 、お兄ちゃんには来て欲しくない。

 さよなら、って──」


 支えるジャッキーを振りほどこうと暴れていた柊平の動きが止まった。

「地獄…未彩が……?」

「ああ、自分を殺すのも立派な殺生だからな。それにストーカーが重なってるから、だいぶ下まで堕ちていくだろう」

「そんな…そんな馬鹿なっ!」

「そうだ、中絶もしてたっけ。子殺しも加わるな」

「ああああっ!」

 ボクの言葉に柊平は悲鳴を上げて、再び暴れ始めた。暴れながら泣いている。その目は真っ赤に充血し、流れる涙が血の様だ。

「未彩が、未彩が何をしたって言うんだっ…全部蓮人のせいだっ!地獄に行くなら蓮人の方だろうっ?コイツが、コイツさえいなければっ…!」

 蓮人に襲いかかるつもりだろう、ジャッキーに羽交い締めにされながらもボロボロの体で必死に藻掻もがいている。

「殺してやるっ…殺させろっ……」

 殺意のたかまりに伴って、ぬえの産毛がみるみる膨らみ始めた。

「コイツを殺せば俺も地獄に行けるんだろ?

 未彩のとこに行けるんだろっ?

 殺させてくれええっ……!」

「けえっ」

「だったらっ!」 

 こちらも止めどなく涙を流しながら真澄が叫んだ。

「だったらわたしが殺す!

 わたしも自殺したからどうせ地獄に行くもんっ…柊平さんは未彩ちゃん悲しませないでよぉっ!」

 真澄は髪が逆立ち目は吊り上がり、全身が赤く発光し始めた。霊体は色によってその危険度が分かれるのだが、赤は相当マズい。無害だった浮遊霊が蓮人に執着し、人を憑り殺す〈憑依霊〉になりかけている。

「蓮人さんっ…わたしと一緒に死んでえええっ!」

「けえええっ!」

 ぬえが断末魔の様な金切り声で啼いた。その体は二人分の殺意でパンパンに膨らんでいる。突付けば破裂しそうだ。このままだと二人同時に蓮人に襲いかかって、どっちも殺人犯になるかもしれない。

 しかしそれなら一遍いっぺんに二人地獄に送れる。そうやって堕とした人数でボーナスが出たりする訳でもないが、仕事なのだから成果を出せた方がやり甲斐もある。だから別に静観していても構わなかったのだが──

 柊平を掴まえているジャッキーが縋る様な目でこちらを見た。

 ボクは深い溜息をつく。

 仕方ねえなあ……


「つまり全てのを引き起こした犯人ホシは──って事だ」


 そう言ってボクは、ベッドの上の蓮人を指差した。


 真澄も柊平もピタリと動きを止めた。

 二人共目を丸くして口もポカンと開け、真澄の赤い発光も収まっている。毒気を抜かれたというやつだ。病室はさっきまでの狂騒が嘘の様に静まり返り、ぬえもシュルシュルと縮んでいった。


 ボクはおごそかに続ける。

「〈殺人教唆きょうさ〉って知ってるよな?

 他人に殺人をするようそそのかし、それに基づいて犯行が実行された場合、実際に殺人を行なった者も唆した者も共に重罪となる。まあ『殺人教唆罪』という刑法上の罪名は無くて、正確には『殺人罪における教唆の罪』だけどね。日本の刑法第六十一条にも『人を教唆して犯罪を実行させた者には正犯の刑を科する』とある。

 自殺の教唆も罪になるけど…ここはまあ、なるべく罪が重くなるよう調しとこう。

 蓮人、お前は真澄と未彩に、未彩には殺人教唆、及び、真澄と柊平に殺人教唆未遂の罪で、死後の行き先決定な」


 そしてボクは、ニッコリと微笑んだ。


「地獄に堕ちろ──クズ野郎」


「……アハ…アハハッ……!」

 唖然とする真澄と柊平をよそに、ジャッキーが笑い始めた。

「確かに二人共凄い殺意だったけど…そうよ、全ての殺意を生んだのは蓮人このひとよ。全部この人のせい。

 この人のせいで凄い殺意を抱いて、真澄ちゃんは仕方無く自分を殺した。

 未彩ちゃんも

 だから真澄ちゃんも未彩ちゃんも自分を殺したじゃない。だから地獄に堕ちない──そうだよね?」

「ホ、ホントか…?ホントに未彩は地獄に堕ちないのか……?」

「勿論よ、蓮人このクズだけ。せっかく妹ちゃんが地獄に行かなくて済むんだもん、お兄ちゃんも行っちゃダメよ!」

 そう言って柊平を抱き締めるジャッキー。

 柊平は憑き物が落ちた様な顔で無抵抗だ。

 真澄が戸惑いつつ言う。

「で、でも…今の殺意でわたしが自分を殺したって……自殺したのは去年の秋だよ…?」

「大丈夫、そんなのはだから♪

 ね、テンちゃん?」

「テンちゃんって言うな」

「だってぇ、ホントに天使なんだもぉ〜ん♡」

 ジャッキーのハートマークを飛び散らかしたウィンクに、ボクは笑顔を引っ込めて、苦虫を噛み潰した様な顔でそっぽを向いた。こういうとかはお咎め無しらしい。都合の良い鬼だ。



「──で、結局、真澄ちゃんと未彩ちゃんはそのまま賽の河原にいるの?」

 ガードレールに腰掛けたジャッキーは、コンビニで買った葡萄ぶどうのジェラートを舐めながらそう訊いてきた。鬼は葡萄が好物らしい。 

 ボクは缶コーヒーを一口すすってから答える。

「ああ、ラミエルとアズラエルの羽根を使った件の報告書を天国うえに提出した時、連絡役の大天使が教えてくれた。

 未遂だった柊平はともかく、実際に自殺したの二人は殺人教唆の罪同様の重罪人だからね。それでも真澄と未彩を問答無用で地獄に堕とすには、情状酌量の余地がかなりあるのも確かだ。これに加えて柊平が熱心に二人を供養し、遺族として減罪を嘆願し続ければ、結局再審再審で三十三回忌の法界王のとこまで審理がいっちゃうかもしれない。それじゃまた地獄の裁判官がオーバーワークになっちゃうだろ?だからボク達の言い分をそれなりに聞き入れる事にしたらしい。

 賽の河原は天国でもないけど地獄でもない、いわゆる〈煉獄れんごく〉だからな。そこで苦行を積んで罪を浄化できれば、まだ救われる可能性がある場所だ。親より先に死ぬ〈逆縁ぎゃくえん〉の罪を犯した子供が賽の河原で延々と石を積み続けるのも、その魂の浄化を目指した苦行だろ。積んだ石をお前ら鬼が蹴飛ばして崩すのは教育的とは言えないけどな。

 それで真澄と未彩にもそんな苦行─をしてもらう事になった。ブラックな労働環境に耐えてしばらくせっせと働けば、その働き次第では更なる免罪も考えてもらえるって訳さ。でも二人共もう両親亡くしてるから、逆縁の石積みは出来ない。だから別の仕事が与えられたんだ」

「なるほど…それで、になったのね」

「真澄は流れる様に客の上着脱がせるプロだからな。未彩の指導も出来るし適任だろ」

「ウフフ、そうね〜。きっと今頃『お客さん初めて?どこから来たの〜?』とか言いながら亡者きゃくの上着脱がせて、頑張ってるわよ」

 そう言ってジャッキーは目を細めて夜空を見上げた。ボクもつられて顔を上げる。

 今夜も春らしい朧夜で、満月が柔らかく辺りを照らしていた。

 視線を下げると雑木林の向こうに蓮人が入院している病院が見える。

 面会時間の終わり際に病室を訪ねてみたが、勿論、真澄も柊平もいなかった。あの犯人特定の日から一週間経つが、ナースステーションで確認したところ、あれ以来蓮人を訪ねてきた見舞い客はいないようだ。今は消灯時間も過ぎて、病室の明かりは全て消えている。蓮人は暗い病室で独り、未だ意識不明のままである。

 それはもしかしたら、あの罪深い男の煉獄なのかもしれない──

「…柊平は轢き逃げ犯として、警察に自首したそうね」

「ああ。それがアイツの煉獄だ」

 やがてジャッキーはジェラートを食べ終わり、ボクはコーヒーを飲み干した。鬼が目ざとく言う。

「空き缶は危ないからちゃんとゴミ箱に捨てなさいよ」

 だから子供扱いをするな。

 ムッとしながら周りを見るがゴミ箱は見当たらない。とりあえずポケットに空き缶を入れると、ジャッキーは小さく笑って隣に立った。その肩の上のぬえはすっかり眠りこけている。

 仄かな月光が降り注ぐ中、ボク達は並んで歩き出した。



 トクン……トクン……トクン……

 心拍計の音が響く。

 生きながらにして地獄行きを宣告されたベッドの上の男が、かろうじて現世と繋がる音だ。

 右腕の点滴のチューブ注射筒シリンジが接続されている。その筒に差し込まれた押し子プランジャーと呼ばれる部分を押す事で注射液を送り出せるのだが、今は筒内に何の液体も入っていない。代わりに入っているのは気体─空気だ。

 その押し子プランジャーが押され、空気が点滴のチューブに入っていく。

 一回…二回…三回……

 繰り返し繰り返し、空気が送り込まれる。

 チューブから右腕の血管へ、大量の空気が送り込まれていく。

 血管に空気が詰まれば、急激に血液の循環が悪化して〈空気塞栓症くうきそくせんしょう〉を引き起こすが、その致死量と言われる200CCには一般的な注射筒シリンジで十回注入すれば到達する。空気は人を生かしも殺しもするのだ。

 七回…八回…九回……

 トクン……トクッ…………トクンッ……

 心拍計が乱れてきた。不整脈を起こしている様だ。

 十回…十一回…十二回……

 トクッ…………トクッ……………

 ヒクッヒクッとしゃっくりをするかの様に胸部が上下する。呼吸がままならないらしい。心拍計は更に乱れ、徐々に弱々しくなっていく。

 十五回……

 ……トクッ…………

 十八回……

 ………ト…………クッ……………

 ピ━━━━━………………………

 二十回を超えた頃、心拍計はもう役目を終えた。計測すべき心音が途絶えた事を知らせる高い信号音が鳴り響く。

 やがて当直の看護師がバタバタと飛び込んできた。すぐに心臓マッサージを施し始めたが、まあ無駄だろう。送り込まれた空気の量は致死量を遥かに超えている。

 男の顔にもはや生気は無く、虚無のしるしが刻まれていた。

 殺生に加え、幾つもの邪淫と妄語うそに塗れていた愚か者の呆気なくも哀れな最期だ。

 死因は空気塞栓症による心筋梗塞となる。脳の損傷は直接の死因ではないので、轢き逃げ犯が殺した事にはならない。これからこの男は唯一人、くらい地の底を彷徨い、やがて辿り着くのだ。

 くぐる者は一切の望みを捨てよと掲げられた、その門の前に──



『どこへ逃げたらこの無限の怒り、この無限の絶望から脱することができるのか?どこへ逃げようが、そこに地獄がある!いや、わたし自身が地獄だ!』


 (第一話 了)


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