〈地獄の沙汰も
『心というものは、それ自身一つの独自の世界なのだ、──地獄を天国に変え、天国を地獄に変えうるものなのだ。』
生暖かい空には黒い雲が羊の様に群れ、隙間から覗く夕陽は赤い。
黄昏と言うには赤過ぎる。
そんな赤黒く霞んだ春宵の中、国道に架けられた古い歩道橋を若い男が渡っていく。
サイドを刈り上げた金髪に革ジャン。イヤホンを耳に着けスマートフォンを見てニヤニヤしながら、左手に持った缶ビールを
カランッ。
「キャアッ…!」
空から悲鳴が降ってきて、金髪男が振り向く間も無く鈍い音が転がり落ちてくる。肉の塊がコンクリートにぶつかる音。それは身を竦めて固まる男の脇を通り過ぎ、地面に激突して止まった。
若い女が頭をアスファルトに叩き付けて倒れている。
口や耳、鼻からも鮮血が飛び散り、首はおかしな角度に曲がっていた。
降り注いでいた赤黒い夕陽が急速に光を失い、街路灯がスポットライトの様に血溜まりの中の女を照らす。
「え…え……」
思考停止してしまった金髪男には何も出来ない。
「た、大変だっ…」「救急車っ!」
歩道を通りがかった通行人が騒ぎ始める中、倒れた女の
振り向くと、
見た目は中学生くらいだろうか、細身で背丈は男の肩までしかない。目を惹くのはその髪で、眉に掛かるマッシュルームヘアは彼が羽織っているブカブカのパーカーと同じ色──真っ白だった。白髪の下の顔は美少年と言っていいだろうが、その端正な顔立ちを台無しにする仏頂面をしていた。
「あ〜あ…やっちゃったね。
「な…」
驚愕する金髪男に、
「あんたが捨てた缶を踏んで歩道橋から落ちたんだ。それで死んだんだよ。
あんたが殺したんだ」
「地獄行きだね、
それは見る者の心を
「ふっ…ふざけんなっ!」
一瞬その笑顔に見
「だ、誰が人殺しだっ…
「いいや、あんたは空き缶で誰かが躓いて、歩道橋から落っこちて死ぬかもしれないって予測してた。これは計画的な殺人だよ」
「はあ?予測なんてしてねえよ!」
「こういうの〈
「し、知らねえよっ…」
「じゃあ無差別殺人だ。怨恨とかの動機も無いからますます事故っぽい。警察に取り調べられても『ホントに悪気は無かったんですぅ』とか言い続ければ逃げられる。ああ卑怯だ、卑怯だなあ…」
「いい加減にしてくれっ、俺ぁホントに殺す気なんかっ…!」
「そう、殺意。プロバビリティの犯罪で犯人が『これで誰かが傷付いてもいい』って思うのを〈未必の故意〉って言うんだけど、今回はその缶で人が躓いて死んでもいいっていう〈未必の殺意〉があったんだろ?やっぱりあんたは、姑息で卑怯な人殺し──」
「殺意なんかねえって言ってんだろ、ぶっ殺されてえのかこのガキがぁっ!」
最高の笑顔で最悪な
「けぇ」
耳元で間の抜けた
見れば歩道橋の手すりに変なモノが止まっている。
両手で包み込めるくらいの黒い綿の固まりにチョコンと脚が生えていて、まるで真っ黒な綿菓子だが、よく見ると赤い点の様な目が二つあり、両脇で申し訳程度の小さい翼をパタパタさせている。どうやら鳥らしい。シマエナガのネガ状態と言えば通じるだろうか。その変な鳥が、黒い綿毛を逆立てる様に膨らませている。
「けえぇ」
「な、何だっ?」
「そいつはぬえって言ってね。近くに殺意を感じると、そうやって体の毛が膨らむんだ。ホラ、人間でも恐怖を感じると
「それは今!お前がテキトーな事ばっか抜かしてっからっ…」
「空き缶を捨ててからたかだか五分、永く生きてるボクからすればそんなの
あんたは殺意を持って罠を仕掛け、そのせいでこの女が落ちて死んだ。
ハイ、殺人罪成立──地獄行き。
そう言う
街路灯がチカチカと点滅し出した。
世界が明滅する。
さすがに異状を感じた金髪男は恐怖を覚えて青
「もぉ、いい加減にしなさい」
血塗れの女が光と闇の中をコマ送りの様に起き上がって、腰に両手を当ててスックと立った。
赤毛のウルフショートが凛々しい美女である。モデル並みの高身長でプロポーションも抜群、袖無しのファーのベストと革のミニスカートも黒で揃えてセクシーだが、折れた首は九十度に曲がっている。
「ねえキミ──」
女はそう言って金髪男の方を向いた。見つめる切れ長の目は
「危ないからポイ捨てしちゃダメよ」
ニッコリと笑った女の口元から、泡立った血がボタボタと
「ひいいっ…!」「うわああーっ!」
悲鳴を上げて金髪男は逃げ出し、野次馬も散る。
残された二人をやっと点滅が収まった街路灯が照らす。
「けぇ」
ぬえがパタパタと飛んできて女の右肩に止まる。膨らんでいた毛は落ち着いて、先ほどの半分くらいの大きさ─片手の拳ほどに縮んでいる。
女は自分より頭一つほど小柄な少年に向かって、軽く咎める様な目を向けた。
「キミが『あのポイ捨て男に反省させるから
「チッ」
「せっかく地獄に一人送れそうだったのに邪魔すんなよな」
拗ねた子供の様なその態度に、女は思わず笑う。
「どっちが卑怯なんだか。
キミ、ホントに
「お前こそそれでも
そう、天使と鬼の
なのに…ったく、使えねえなこのお人好しは。
これで名前が『邪悪鬼』と書いて『ジャッキー』って読むってんだから、冗談が過ぎる。
「あ〜またそんな不満げな顔して。仲良くやりましょ、
「その呼び方はやめろって言ってんだろ」
「だって名前が無いと呼びづらいじゃない。下級天使は名前が無いなんて可哀想ね、天使のテンちゃん♡」
そう言ってジャッキーはケラケラ笑う。
見た目が子供だからってガキ扱いすんじゃねえよ、鬼。同じくらいには永く生きてるんだからな、たぶん。
そんな
勿論、本来ボクは天国、ジャッキーは地獄に所属する。天国と地獄の仕組みについて人間界では西洋、東洋、宗教
地獄には〈十王〉という十人の
その中でも特に五番目の担当の閻魔王がクローズアップされるのは、ほとんどの罪状と行き先がそこで決まるからである。というのも生前の善悪を映し出す〈
そして四十九日までに審理に加わらない三王は、閻魔王の地裁が裁ききれなかった場合に動く高等裁判所の役割を担う。
百日忌の
一周忌の
三回忌の
それでも死者の罪状が確定しない場合の特別措置として、十王以外に更に三王がいたりもする。
七回忌の
十三回忌の
三十三回忌の
こちらは再審請求を受理する役目だろうか。
事程左様に地獄の裁判制度は、まあ、良く出来ている。
ところがその地獄の裁判所が近年、上手く機能しなくなってきたのだ。
十王の間で意見が分かれて審理が紛糾し、予定の四十九日を超えても判決が出ない。死者は初七日を終えると次に進む為に〈三途の川〉を渡るのだが、先がつかえているので順番待ちとなり、川岸の〈
そうなった理由は人間達のある意味
互いに名前も顔も知らない者同士がネット上だけで罵り合い、騙し合う。
愛してると言っては付き
そしてその日の気分で何となく、自らの人生を終わらせる。
そんな過去の判例に無かった
一応、天国にも死者を管理する天使はいるんだけどね。
アズラエルって
そんなこんなで天国と地獄で協議した結果、妥協案がまとまった。地獄の審理を少しでも楽にする為、現世で下調べを済ませておく事になったのだ。つまり、やらかした犯人の有罪の証拠を生きている間に集めておいて、死んだら即地獄行きのスピード判決が出せるようにしておこうという、人間界で言うところの〈公判前整理手続き〉みたいなモノである。
そしてその為の人員を天国と地獄の双方から等しく出し、二人一組で動く事も取り決められた。これは表立ってはどちらかに偏ると公正な捜査と判断が出来ないという理由になっているが、当然それぞれの監視役も兼ねてである。管轄も役割も違う天国と地獄が、能天気に相手を信用できるはずもない。
という訳で大勢の天使と鬼のコンビが選ばれて世界中に散ったのだが、そのうちの
と言っても大した能力の無い下級天使と、ほぼ不死身の生命力だけが取り柄の鬼に、十王並みの細かい審理は出来ない。だからボク達は地獄に堕ちる罪の中でも、
(それにしても……)
ボク達は国道沿いに当ても無くしばらく歩いていたが、やがて見付けた大きめの公園の中を通る事にした。曲がった首はすっかり快復したとはいえ、血塗れのジャッキーにすれ違う通行人が皆悲鳴を上げて
雑木林に囲まれた昏い遊歩道で、隣を歩く彼女をジトッと見る。
「ウフフ、ポワポワ〜♡」
「けぇけぇ」
肩に乗せたぬえを指で撫でてご満悦な鬼娘。顔の血は公園の水道で洗い流し、黒い服に付いた分も目立たないので、今は呑気で無害なネエちゃんにしか見えない。鬼らしさが全く無い。
実際コイツは変わっていて、普通鬼の
と言っても、向いていないという点ではボクも
そんなボクらをただ
そもそも天使がずっと守ってきたのは人間じゃない、
だからボクはもうずっと、守護天使なんか辞めていた。ボイコットだ。人間の善性を
だがその謹慎中に、今回の
それはボクだけでなく、
しかし
そういう訳でボク達はぬえの
(くそっ、ボク一人だったらもうだいぶ地獄に堕とせてるのに…)
忌々しい気分でジャッキーを見ていたら、鼻の頭に水滴が落ちてきた。
見上げるとすっかり昏くなった空から雨が降ってくる。春雨と言うには冷たい雨だ。
ジャッキーも剥き出しの肩を抱く。
「あら〜困ったわね。風邪引いちゃう」
「不死身で鈍感な鬼が何言ってんだ」
「あたしじゃなくてキミよ。ホラ、テンちゃん、フード被って…」
「だからテンちゃんって言うな!
「けええっ」
天使と鬼が仲間割れしかけた時、ぬえが
かなり強い殺意が近くにある──
ボクとジャッキーは辺りを見回し、同じ場所に
公園の雑木林の向こうに五階建ての病院があり、その三階の窓から明かりが漏れている。
「けぇ」
どうやら正解らしい。
「…じゃあ雨宿りさせてもらうか」
「そうね」
闇から落ちてくる雨は徐々に強くなっていた。
俺が病室に入ると、彼女は今日もいた。
「…今晩は、
「いらっしゃい
「君こそお疲れ様…どうだい、
「うん、相変わらずなの」
真澄はそう言って華やかに笑う。
人懐っこそうなクリクリとした目が印象的な、愛嬌のある美人だ。緩やかなウェーブが掛かったセミロングの茶髪は綺麗にセットされ、ピンクの口紅も愛らしい。高級キャバクラで働いていると聞いたがこれなら人気もあるだろう。着ているワンピースも派手では無いがブランド品らしく、客からのプレゼントかもしれない。
しかし俺は内心首を捻る。この違和感は何だ?どうしてこの状況でこんなに邪気無く笑えるのか。
目の前では自分の
俺は入口のドアを閉めてベッドに近付く。
入院着を着た蓮人は点滴と、心拍数や血圧などを測るベッドサイドモニターに繋がれている。室温が少し低い気がするのだが、その機械類を保全する為の設定だろうか。そんな中、枕元の脇に立つ真澄は彼を愛おしげに見下ろしていた。
「蓮人さん、ホントに良い親友を持ったね。毎日お見舞いに来てくれるなんて」
「いや、仕事帰りに寄ってるだけだから……
真澄ちゃんこそ毎日夕方から、面会時間ギリギリの八時までいるじゃないか。それから電車乗って…お店も自宅も新宿なんだろ?ここ千葉だぞ。往復二時間以上は掛かる。それで朝まで働いて、次の日またここに来て…大変過ぎるよ。ちょっと見舞いのペースを緩めてもいいんじゃないか?」
「ウフフ、ダメよ、蓮人さんが寂しがるもん」
「
「大丈夫!わたし今の仕事好きだし、結構人気あるんだから♪柊平さんも是非お店に来て」
「そ、そうだな…」
俺は思わず目線を落とす。ヨレヨレの
俺は顔を上げて蓮人を見る。
「真澄ちゃんはコイツと店で知り合ったんだろ?」
「そ〜そ〜、二年前かな。最初に会社の人と一緒に来た時わたしが付いてね。意気投合して、それから常連さんになってくれて〜♡」
俺はやさぐれた気分を隠したくて強引に会話を捻じ曲げたが、真澄は嬉しそうに乗ってきた。頬を染めたその表情からも、彼女が蓮人の事を相当気に入っているのは伝わってくる。イケメンで一流商社に勤務する蓮人は、
「柊平さんは蓮人さんとは高校からの親友なんでしょ?もう十年以上の付き合いって事?」
「うん、同じバスケ部でね。蓮人はレギュラーで俺は補欠だったけど、しょっちゅうツルんでたんだ。そのまま大学もスポーツ推薦で同じとこ行ったからさ…まあ腐れ縁だな」
「そっか、二人共スポーツマンなんだ。なら体は丈夫だよね。
じゃあもうすぐ、目を覚ますよね…?」
ハッとして見ると、真澄は笑顔のまま大きな
「……蓮人を轢き逃げした犯人、まだ捕まってないんだろ?」
俺がそう呟くと、遂に彼女から笑顔が消えた。
「うん…警察も逃げた車が見付けられないんだって」
「そっか…一ヶ月も経つのにな」
「酷いよね……
それまで抑えていた感情が爆発したのか、真澄が声を荒らげる。俺を見つめる目に異様な光があった。
俺は逆に感情を押し殺して静かに言う。
「…俺もそう思う」
真澄は俯き、俺も口を
蓮人の心音を刻むベッドサイドモニターの心拍計だけが、規則的に鳴り続ける。
「人殺しなんて…ダメよ」
「ああ、許せないな……」
「えっ、殺したいんだろ?」
驚いて入口の方を振り返ると、さっき閉めた扉が開いている。
そこにはパーカーを着た白髪の中学生が、不機嫌そうな顔で立っていた。
ボクが声を掛けると、病室内の男女はこちらを向いて固まった。
冴えない作業服姿の男と小綺麗なワンピースの女。二人の前のベッドには点滴やらの
「…だ、誰だ?殺したいってどういう──」
「いらっしゃいませ〜!
あらあらこんなに濡れちゃって、だいぶ雨が強くなってきたのね。ここ寒いからそのままだと風邪引いちゃう。上着預かるわね。お一人?」
ニコニコしながら手早くボクのパーカーを脱がせる女。確かにこの部屋は寒いが……
「
お見舞いに来てくれたのね、ありがとう〜♡」
「いや……」
虚を突かれて無抵抗でいるうちにパーカーは脱がされ、女は「水
困り顔になった女に、ボクの背後から声が掛かる。
「あたしが預かるわよ。
それにしてもテンちゃんを黙らせるなんてやるわね〜」
「テンちゃんじゃねえ」
クスクス笑いながら病室に入ってきたジャッキーに、ワンピースの女の目が少し鋭くなった。
「なあにあんた…もしや同業者?わたしの客を
「違うってば」
苦笑するジャッキー。確かにコイツは顔もボディラインも、地獄の鬼より夜の蝶の方がしっくりくるし稼げそうだ。そんなハラスメント含みで見ていたのが伝わったのだろう、ジャッキーは畳んだパーカーを受け取りながら軽くこちらを睨んでいた。
ワンピースの女はまた笑顔になって自己紹介を始める。
「わたしは真澄。蓮人さんとお付き合いさせてもらってるの。
こちらは彼の親友の柊平さん。
貴方達は?蓮人さんとどういうお知り合い?」
柊平と呼ばれた男は真澄の背後から、黙ってボクとジャッキーを見ていた。そういえばボクの『殺したい』発言を気にしていたな。正直に言ってやろう。
「知り合いじゃないさ。
ボク達は
真澄と柊平の表情が、揃ってサッと変わった。
恐ろしく真剣な顔に。
「このジャッキーの肩に乗ってる
あんたらさっき、誰かを殺したいって思ったろ?」
今度は二人揃って目を丸くした。
ぬえを見ると今はジャッキーの肩で小さくなって
そう、殺意は基本、あまり持続しない。
嫌いな相手を『アイツ殺してやりてえ』とか毎日ジメジメ思うのは日常的なストレス発散に過ぎず、実際の殺人に繋がるのはもっと強烈な感情だ。我を忘れる程の激しい怒りや積もり積もった恨み、
しかしこの負の感情の爆発というのが長続きしないのだ。アドレナリン分泌のピークは『カッとしてから六秒後まで』と言われている。ぬえも目の前で感知すれば誰が殺意を発しているか分かるのだが、とっくに消えてしまった今となっては判別が付かない。
「ここには三人いるけど一人は意識不明だからな、殺意を抱くとしたらあんたらだ。瞬間的に発生する殺意の特性と強さを考えると、どこかの誰かじゃなく目の前の相手を殺そうとしたんだろう。もしかして喧嘩して、殺し合おうとしてたとか?…いや、二人分の殺意だったらぬえはもっと膨らんでるな。あんたらのどっちかがもう一方を殺そうとしていたか。それとも──」
「な、何を訳の分からない事をっ…」
ようやく我に返った柊平が前に出てボクに詰め寄ろうとするが、構わず続ける。
「この蓮人とやらを殺したいのか?」
病室内は静まり返った。
心拍計の音が響く。
ボクは確信した。
本来なら入院患者に対する今の様な発言には、近しい人ほど『非常識だ』と怒るはずだ。なのに真澄も柊平も顔を強張らせたまま黙り込んでいる。不自然だ。そして真澄はジッと柊平の背中を見つめ、柊平も横目で背後の真澄に視線を送っていた。
ボクの横に立つジャッキーも、二人を見て眉を
二人のうちどちらかが、蓮人に殺意を抱いている。
そしてその事に、もう一人が気付いているのだ。
恋人か親友──人殺しはどっちだ?
……しばらく続いた沈黙の後、目の前の柊平が口を開いた。
「…殺人犯を捜してるって言ったな。あんたら警察の人間か?それとも探偵?」
「どっちかと言うと検察に近いかな」
「そうか……」
柊平は何度か頷いた後、肩越しに真澄に声を掛けた。
「真澄ちゃん、俺夕飯まだなんで、ちょっとコンビニ行ってくるよ。君は何か
「わたしは…お腹空かないから……」
「じゃあえっと…ジャッキーさんだっけ」
ジャッキーは急に名前を呼ばれてキョトンとする。
柊平はボクの方を手で指し示して言った。
「俺はこの人と買い物行ってくるから、真澄ちゃんと留守番しててもらえる?」
なるほど…そういう事か。天使も普通に食事はする。大天使ラファエルは最初の人類アダムの家でご馳走になり、奥さんのイヴにお酌させていたそうだ。しかし別にボクがひもじそうにしていた訳ではない。
しかし一方の話だけでは決められまい。ジャッキーは持っていたパーカーをボクの肩に掛け、その隙にボクは背伸びして、彼女の耳元に顔を寄せて
「そっちも話聞いとけよ」
「オッケー♪」
ウィンクして即答したところを見ると、ボクの意図を汲んでくれたらしい……意外とコイツも役に立つんだな。
雨は本降りというほど強くはなく、かと言って霧雨にしては重たい。シトシトよりジトジトってとこか。鬱陶しい。
ボクと柊平はそれぞれ病院の入口にあった傘を借り、連れ立って歩道を歩いていた。柊平は道すがらに事情を話し出す。
「…一ヶ月前、蓮人は残業帰りの深夜に自宅近くの道路沿いを歩いていて、黒い乗用車に
「でも黒い乗用車ってのは分かってんだ。近くに防犯カメラがあったとか?」
「いや…あいにく」
ボクの質問に首を振る柊平。
それなら何で車の色と車種が?
「現場の近くに〈
ああ、なるほど。
Nシステム──正式名称は〈自動車ナンバー自動読取装置〉。
全国の道路網が整備された結果、自動車で広範囲に逃げられるになった犯罪者達。その捜査はかつて、通行止めにして一台一台チェックする〈検問〉が主流だった。しかしこれは渋滞を引き起こし交通が麻痺するのが難だ。そこで逃走する被疑車両や盗難車両を速やかに捕捉し、犯人検挙に繋げる為に整備されたのがNシステムである。小型化された装置は歩道橋や電柱、標識等に取り付けが可能で、現在、全国の高速道路や主要な国道など千五百ヶ所以上に設置されている。
これを似た状態で設置されている〈オービス〉と混同している人も多いだろう。オービスはスピード違反のみを取り締まる装置であり、通過する車の走行速度を常に計測している。そして速度違反を検知した時だけ、搭載されたカメラでナンバープレートと運転手を自動的に撮影するのだ。
一方、Nシステムは通過車両全てのフロントナンバープレートを常に撮影していて、最新式は運転手の顔も鮮明に撮れているそうだ。その映像のナンバーや車両の色、形状等のデータを警察の手配車両リストと自動的に照会する事が出来るので、近年社会問題になっているあおり運転の捜査などでも犯人検挙に貢献している。
そのNシステムに黒い乗用車が映っていた訳だ。
「だけどそれなら、ナンバープレートだって映ってたんだろ?それで何で犯人がまだ捕まってないんだ?」
「それが…警察も情報を集めるのにその映像を公開したんだけど、ナンバープレートは外されてるし、運転手もマスクと帽子で顔を隠してるんだ。事故車も見付かってないって事は直後に処分したんじゃないかな」
「ふうん……」
轢き逃げの詳細は分かった。
しかし柊平がボクに話したかったのはその事じゃないだろう。
傘の下の横顔を黙って見る。性根の良さそうな朴訥な顔立ちは本来、相手に好感を抱かせるタイプだろう。しかしどうにも顔色が悪く、
そんな何かに取り憑かれた様な柊平が低い声で言った。
「…真澄ちゃん、蓮人の彼女だって自己紹介してたろ?知り合ったのは二年前らしいんだけど……
でも蓮人は去年、他の女性と婚約してるんだよ。
大手取引先の重役の娘でさ、結婚すれば出世にも繋がるいわゆる『逆玉の輿』ってやつ」
「つまり、二股かけてたって事?」
じゃあ真澄がそれを恨んで、意識不明の相手にトドメを刺しに来たのか?その為にずっと蓮人の傍に……いや待て。
「だったら毎日お見舞いに来るべきはその婚約者じゃないの?何でそっちはいないんだ?」
「それは…破局したから」
「破局?」
「蓮人が事故に遭う直前、婚約破棄になったんだ」
「どうして?」
「ストーカー被害に遭ったからだよ」
「ストーカー……」
ボクは思わず溜息をつく。
愛情と執着を履き違えて
「蓮人は昔からモテたから、恋人も何人も入れ替わってきた。最近その元カノの一人がアイツに付き纏っていたんだ。『やり直して』ってメールがしつこく送られてきて、ブロックしたら自宅のポストに直接手紙や贈り物が入ってる。引っ越してもすぐ突き止められて──
そのストーカーが蓮人の婚約を知って、婚約者にも嫌がらせをするようになったんだよ。蓮人と別れろって電話やメールで脅迫し、彼女の会社にも『上司と不倫している』とか誹謗中傷の手紙を送り付けてさ。蓮人も何とかしようとしたんだけど……
アイツ、ストーカーが誰なのか分かってなかった」
「分かってなかった?」
「そんだけ別れた恋人が多過ぎたんだ。
さっき二股って言ってたけど、確かにアイツ、婚約する前後にも同時に付き合ってた相手が複数いたみたいでね。時期的には真澄ちゃんもその一人なんだろう。モテ過ぎるのも厄介だよなあ〜」
柊平は冗談めかしているが、目は笑っていない。話を聞く限り蓮人は女にモテると言うより、女にだらしない男だ。親友ではあっても快く思っていなかった部分なのだろう。
「それで結局、婚約者の方が耐えられなくなって、蓮人との婚約を破棄して欲しいって言ってきたそうだ。逆玉もパーさ。
蓮人も相当ショックだったのか、事故の直前に大学の同期と呑んだ時に婚約破棄の事を打ち明けて『何の為に他の女を切ったんだ』って酔っ払って
「他の女を切った…つまり婚約してから現状、蓮人に恋人はいない?」
それじゃあ今、彼の病室にいるのは……
柊平はチラリとこちらに視線を寄越し、表情を歪めて頷いた。
「十日前…蓮人の面会謝絶が解けた初日に、俺は病室に見舞いに行ったんだ。
そしたらドアの前に真澄ちゃんが立ってたよ。『初めまして、蓮人さんとお付き合いさせてもらってます!』って満面の笑顔でね。その時確信した──
彼女が蓮人を追い詰めたストーカーなんだ。
そして今度こそアイツを自分だけのモノにする為に、
そして真澄ちゃんは、これから毎日お見舞いに来るって言ったよ。
だから俺も毎日病院に行って、蓮人を守るって決めたんだ」
筋は通っている。
それが本当ならさっきの殺意の主は真澄で、その実行前に間に合った柊平のお陰で蓮人は命拾いした訳だ。
「だから彼女にとって俺は、心底邪魔者なんだよ。キャバクラで磨いたスキルなのか、あんたにはあんなに愛想良くパーカー脱がしたりしてたよな?でも俺には近付いてもこない。まあ、貧乏そうで客にならないって値踏みされてるだろうし、こんなツナギじゃ上着脱がすも何も無いんだけどさ。それ以上に邪魔者にムカついてるんだろ。それでも何とか隙を見付けて蓮人を殺そうって狙ってるからさ。ムカつく俺相手に上辺は笑顔も見せながら弾まない会話を無理やり続けて、いつも面会時間ギリギリまで粘ってるんだ。
でもあのコ、何か言動が怪しくてね。恋人が意識不明だってのに妙に明るかったり、かと思えばジトッとこっちを睨んで、急に『人殺しはダメだ』とか叫んだり…あの情緒不安定さはストーカー特有のモノなのかもしれない。いつ興奮してナイフを取り出してもおかしくないから、こっちは緊張しっ放しだよ……
なあ、あんたら警察だか検察だかってんなら、あのコ捕まえてくれよ!」
柊平は苛立った声で訴える。その親友を守ろうという使命感と恋人を名乗る女への警戒心で常に神経を尖らせて、心身共に疲弊しきっているという事か。
彼の言う通りなら、真澄はだいぶ地獄の奥に足を突っ込んでいる。色欲に溺れたストーカーが殺人を犯せば、殺生と邪淫の罪で〈
ただし、判断するのは真澄の事情も聞いてからだ。
もし蓮人の命を狙っているのが柊平の方なら、ずっと
ジャッキーは上手く真澄から話を聞いてくれただろうか……?
「うわぁ〜ホントにポワポワ〜♡
ぬえちゃんって言うの?可愛い〜」
「真澄ちゃんも可愛いわよ〜!
そのプラチナのネックレスもいいけど、ワンピースも素敵♪落ち着いたサンドベージュがシックよねぇ〜。あたしもそんなの着たいなぁ……
あたしが
「アハハ、よく分かんないけど…ジャッキーさんアダルトだから、黒がとっても似合うよ!脚も綺麗でセクシーだし」
「ウフ、ありがと♡」
「いや〜ん、そのスマイルもヤバ〜い!
ね、ぬえちゃん?」
「けぇけぇ」
「あらあら、ぬえったらすっかり懐いちゃって」
「アハハッ…」
「ウフフッ…」
ボク達がコンビニの袋を提げて帰ってくると、病室はすっかり女子会の会場と化していた。二人は井戸端会議の主婦よろしくベッドの横で賑やかに立ち話をしていたが、入口で憮然として立ち尽くしているボクに気付くと、ジャッキーはニコニコしながら寄ってきて耳打ちする。
「さっき真澄ちゃんと柊平さん、何か雰囲気悪かったもんね。
言われた通りフレンドリーにトークして、楽しくご飯食べられるようにしといたよ」
コイツに期待したボクが馬鹿だった……
結局、真澄と柊平のどちらが蓮人を殺そうとしていたのか確証が掴めないまま、その日は面会時間が終わるまで食事会をする羽目になったのである。
「いいコよね〜真澄ちゃん、あたし気に入っちゃった。話も面白いし、テンちゃんの
解散して病院を出てからも、ジャッキーは上機嫌だった。食事会でもコイツが浮かれて真澄と喋り倒していて、肝心な事は訊けず
ボクは冷たく言い放つ。
「だったらアイツが蓮人を殺したら、お前が地獄に案内してやれ」
「そんなぁ、もしあのコが殺意を抱いてるんなら、止めてあげようよぉ」
とことん使えねえ。
しかしこれからどうしようか。恋人か、親友か──これが人間の警察なら任意同行して事情聴取したり、人海戦術で張り込みして現行犯で押さえるのも可能だろう。だがそれはボクには出来ない…というか、まどろっこしい。面倒くさい。最下級天使に警察力に代わる特殊な能力がある訳でもない。
─仕方無い。
(後編に続く)