あの夜、あの寒空の下、二人で見たあの火を、僕は今まで求め続けていたのだろう。
木々のクリスマスイルミネーションが消え、何処かのサイトから流れるクリスマスソングが消えた。ついこの間まで夜の世界の胎動を感じさせてくれた虫の声も、冬の寒空の下では聞こえるはずもない。風が吹くと木の葉すらない小枝が小さく軋む。その隙間から見える星は、先程まで光っていたイルミネーションの幻影のように、弱々しく存在を主張している。
消灯時間を過ぎ、自分のサイトに戻った僕ーー
昼間に拾ってきた小枝を火の中に放り込むと、小さく爆ぜて火の粉が舞った。
子供の頃は、どんどん複雑になっていく世界に恐れを感じていた。自分の感情を行動として表現する時、そこに否応なしに付随してしまうさまざまなしがらみに正面から向き合えず、逆立ちした天邪鬼の様に斜め下から世界を見上げていた。
でも、この歳になって感じるのは、世界というのは結局のところ僕の周りのごく一部にしか存在せず、複雑に見えていて至ってシンプルだということだ。
国と国の間で起きている戦争や、社内で起きている派閥争いや、ゴミを捨てた捨てないの痴話喧嘩まで、いろいろな規模の出来事がこの世界では繰り広げられている。しかし結局僕が影響を与えられる世界というのは、この小さな焚き火が照らし出している空間程度なのだろう。
そう考えると、手を伸ばせば触れる距離に座っている、この人の幸せを願い、それを手に入れるために動き続けることくらいが、僕の出来る関の山なんだと思う。
一人一人が、自分の焚き火が照らす範囲だけでも、幸せを築くために努力していく。
その重なり合いが、複雑な社会をシンプルな形で、幸せの方向に進めていくのだろう。
△
「冷えてきたね」
僕が言う。
「うん、寒い」
穂乃果が返す。
「川上夫妻のテントのストーブ、めちゃくちゃあったかそうだったな」
「薪ストーブもいいかもしれないけど、そのためにはテントを新調しないとね。ポリエステルだと溶けちゃうから、コットン製のやつにして、煙突通さないとダメじゃん」
「そういや、うちが持ってきた灯油ストーブと、同じやつ使ってるキャンパーさんがいたよ」
「そうなの? へぇー、急遽買ってきたストーブだったけど、なかなか適したやつだったのかも」
「さすが穂乃果」
「えっへん。ん? 何笑ってんのよ」
「いや、そのドヤ顔、昔から変わんねーなって思って」
「あのー、それってつまり、今も10代前半の様に若々しいって事ですよね?」
「まぁ、そう受け取ってくれてもいいです」
「お世辞にしても、度が過ぎてるぞ慎三郎」
「あれ? マジでお世辞だと受け取ってんの?」
「え?」
「ん? いや、なんでもないです。ところで、お湯沸いたみたいだよ」
穂乃果の隣に置かれた灯油ストーブの天板で、水を入れた小さなケトルから勢いよく湯気が上がっている。
「あ、コーヒー淹れよ」
「僕がやろうか?」
「いいよ、慎三郎下手だし」
「さらっとひでーな」
「ていうか、淹れ方教えるよ。今後一人でキャンプ行った時、不味いコーヒーしか淹れられないんじゃ悲しいでしょ」
「僕は粉で十分だよ。ちゃんとした美味いコーヒーは、穂乃果とキャンプに行くときの楽しみとして取っておきたいし」
「あのー慎三郎さん、私が今から一回教えたくらいで、私レベルのコーヒーが淹れられると思ってる? 一人でキャンプに行った時には、自分で淹れたイマイチのコーヒーを飲む。そして私と行った時には、私の淹れた究極のコーヒーを飲む。そして私という存在の素晴らしさに、平伏し、涙を流せばいいの」
「はあ」
「もう私から離れられなくなるよ。向こうに戻った翌日には、もう私に会いたくて仕方なくなるだろうね」
「毎週帰ってきちゃうかもな」
「帰って来なよ」
「‥‥そうだな。貯蓄に影響しない程度に」
「当然。ほら、そんな思いを込めて作った、究極のコーヒーですよ」
「ん、美味い。ありがと」
「焚き火の香りとの相性が良さそうなブレンドにしてみました」
「なにそれ、すごい」
「なんとなくだけどね」
遠くのサイトで、ランタンの明かりがまた一つ消えた。夜は徐々に、深みへと沈み込んでいく。僕らの声もだんだん小さく、口数もだんだん少なくなっていく。
小さな焚き火と、キャンドルランタンと、ストーブの小さな明かり。穂乃果がキャンドルランタンのガスを止めると、夜は更に深まり、星は更に輝き増した。
「あ」
穂乃果が不意に口を開く。
「どうした?」
僕は尋ねる。
「今のこの感じ、なんか既視感がある」
そう呟いて、穂乃果は目を瞑る。コーヒーの苦味の中に含まれる微かな甘味を感じ取るように、目を瞑り夜空を仰いだ。
そしてしばらくの沈黙の後、穂乃果は再び口を開く。
「あ、あの冬の、焚き火」
僕は頷いた。
説明は要らなかった。
僕も今同じ火を思い出していたから。
あの夜、あの火を見た瞬間から、僕は再びあの火をに巡り会える時を、ずっと待ち続けていたのだから。