異動が確定してからの日々は、慣れと安穏の巨岩で堰き止められていた川が決壊したみたいに、目が回るほど慌ただしく過ぎていった。
引き継ぎのための書類作成や、移動先とのリモート打ち合わせによって日々が削られ、自室に戻ったら倒れ込むように眠る毎日。
「今日もお疲れ様。無理しない、って訳にはいかないんだろうけど、程々にね……」
心配した
僕は疲弊し切っていた。
でも心のどこかでは、自ら望んでその濁流に飲まれていた。
慌ただしい毎日は、これから来る別れを忘れさせてくれるからだ。
△
土曜日、自室でのパソコン仕事が一段落した頃には、もう夕日は西に傾いていた。一時的に書斎として使用している寝室から出ると、キッチンでは穂乃果が料理を作っていた。
「いつもすまんね」僕が言う。
「いやいや、かまわんよ。こういう時はお互い様だし」振り返った穂乃果は、頬にかかった髪を小指でかき上げて、笑った。
「なんかやる事ある?」
「座ってテレビでも見てなよ。疲れてるでしょ」
「ほのかー、やさしいー」
「うわ、抱きつくなって、危ないから。まったく、元気あり余ってる?」
「元気です」
「はいはい。それじゃ、ちょっとおつかいお願いしていい?」
「お、おう」
「ビールの買い置き切れちゃってるみたいだから、コンビニで買ってきてよ」
「了解。今日の晩御飯は何?」
「餃子。これから包むから、帰ってきたら手伝って」
「わかった。餃子か、ビールは必須だね」
「でしょ」
「んじゃ、行ってくる」
玄関のクローゼットからアウターを取り出して羽織っていると、キッチンから穂乃果の声。
「しんざぶろー」
「なに?」
「それとプリンも!」
「了解」
コンビニで一番贅沢なプリンを買って帰ってやろうと思った。
△
コンビニは歩いて十数分の距離にある。
僕と穂乃果が大人になって久しぶりに再会したのも、このコンビニだ。そう言う意味では、ここは僕らの思い出の場所なのかもしれないが、そう美化してして捉えるには些か俗っぽすぎる。
スイーツコーナーで生クリームと季節のフルーツがのったプリンをカゴに入れ、500mlのビールを2本と一緒にレジを通す。今更ながら中華まんとおでんの販売が始まっていた事に気付いて、耳元で冬の足音を聞いたような気分に浸る。
自動ドアを抜けると、針先で肌を突くような冷たい風。例年通りであればもうすぐ初雪が降り、本格的な冬の始まりを告げる、そんな季節だ。
西日は完全に、連なる団地の影に隠れてしまった。
気が早い街灯が点灯し、それに遅れを取った仲間達が我先にと明かりを灯し始める。まだぼんやりと西日の赤が残る曖昧な空気を、等間隔に輝く白色LEDが秩序立った世界へと作り替えていく。
コンビニ袋をぶらぶらと揺らしながら歩いていると、僕の心の中の曖昧な黄昏が、徐々に明確な黒へと変わっていくのを感じた。
あと何日、僕はこのあたりまえの日常を過ごすことが出来るのだろうか。
頭の中のカレンダーから具体的な日数を導き出そうとする自分と、その単純な計算式の構築すら拒否しようとする自分。結局答えは曖昧なまま、再び無意識の箱に押し込んで蓋をする。
アパートが見えてきた。
穂乃果の待つ、僕の帰る場所。
でも、そこは、いずれ消えてしまう場所。
玄関のドアを開けた時、そこに穂乃果がいない、そんな悪い夢みたいな日々が、いずれ僕の日常を侵食してしまう。
穂乃果がいない場所で、僕は正気でいられるのだろうか。
そんな場所で、僕はいつも通り寝て、食べて、息をすることができるのだろうか。
想像するだけで寒気がするような、そんなこの世の終わりのような場所で、僕は生きていけるのだろうか。
ドアの鍵を回した。
もしこの扉の先に、穂乃果がいなかったら。
現実的に考えれば荒唐無稽な不安が、心の奥底から湧き上がってくる。
その不安に追い立てられるようにドアを開けた。
暖かい空気が流れ出る。
味噌汁の匂いと、ご飯の炊ける匂いと、2人で使っている柔軟剤の匂い。
「あ、おかえり」
穂乃果はそこにいた。
変わりなく、いつものように、そこに存在していた。
僕は安堵する。
そして、それが単なる気休めの感情であり、いわば死刑宣告の先延ばしでしかない事実からは、努めて目を瞑ろうとした。
僕は煩わしくなり続け目覚まし時計を叩き伏せ、再び安寧な夢の中へと沈み込むのだ。
△
穂乃果と2人で包んだ餃子は、お互いの個性が現れていて面白い。ここの包み方が変だとか、ここは自分の方が上手だとか、たわいもない話で盛り上がる。
冬の新作ビールと餃子のコンビネーションが絶妙で、僕は1人一本しか買ってこなかったことを後悔する。穂乃果にそれとなく催促すると、仕方なしといった様子で自分の缶から僕のグラスにビールを注いでくれた。
テレビでは、流行りの芸人がひな壇に座ってVTRにツッコミを入れている。観覧席で笑いが起き、司会者の芸人が放った発言でさらに会場が盛り上がる。
でも僕はテレビを見る気にはなれなかった。ただテレビ画面を見るめる穂乃果の横顔と、穂乃果のいるこの空間を、網膜に焼き付けようとしていた。
番組が天気予報に変わる。
明日は晴れ。久しぶりに快晴の日曜日だ。
「雪、か」
穂乃果が言う。
「え? 明日晴れだよ」素っ頓狂な穂乃果の発言。面白くない冗談のつもりだろうか「えっと、それってあれ? 不思議ちゃん、ってやつ?」
「はぁ? んなわけないじゃん。ほら、来年慎三郎
が行く街の、さ」
ハッとなって視点を日本地図の北側に移す。来年僕の行く街の名前の下で、雪だるまマークが揺れていた。
「天気予報、こっちとあっちとじゃ、全然違うんだね」
「そうだな」
「まあまあ、遠いけど、いけない距離じゃない」
「同じ日本だし」
「風邪引くなよ、慎三郎」
「おう」
単純化された日本地図の、今と、未来の立ち位置を見比べながら、僕は頷いた。
近づく別れの実感は、降り積もる雪みたいにしんしんと静かに積み重なっていくものなのかも知れない。夜更けから降り始めた雪が、朝には辺り一面を白銀に染めているように。
ならせめて、と僕は願う。
出来るだけ淡く、柔らかい雪が、僕らの間には降り続いてほしい。
テレビは今日のニュースに変わった。
僕はこの寂しさを共有できる言葉が見つからなかった。ただテレビを見る穂乃果の表情にも、同じ寂しさが隠れているような気がして、ただその横顔を眺めていた。
「何見てんのよ」
「何でもない」
その短い受け答えすら、たまらなく愛しいもののように感じた。