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第35話:7回目 高規格リゾートキャンプ③

「慎くん、県外の大学に行くんだってねぇ。穂乃果ほのか知ってた?」


 母が井戸端会議で仕入れてきたその情報を、高校時代のわたしーー佐々木穂乃果は知るわけもなく、ただ曖昧に「へー、そうなの」と答えた。


 そして、おそらくもう二度と、慎三郎しんざぶろうと会う事はないんだろうな、と感じた。


 中学時代に疎遠になってからも、家が近所のため彼の姿を見かけることはままあった。近くのスーパーで買い物をしている慎三郎や、近くの本屋で立ち読みしているしている慎三郎、模型店の前でショーウインドウのガンプラを眺める慎三郎。

 その度に、ここで声を掛けたらどうなるだろうか、などと様々な可能性を考えて密かに楽しんでたいのだが、結局実行せぬまま今に至る。

 ある日、知らない女の子と歩いている慎三郎を見かけた時、自分の軽はずみな行動が、慎三郎の人間関係に亀裂を作る要因になり得る事を痛感し、それ以降は意識して関係を絶っていたと思う。


 部屋に戻り、カバンを下ろして、制服を脱いで部屋着に着替える。

 ふと見た鏡の中の自分の顔が、余りにも深い悲壮感を湛えていることに気付き、わたしは枕に顔を埋めた。


 もう二度と、慎三郎と会うことはない。


 これからは、スーパーで、本屋で、家に向かう歩道で、慎三郎を見かけて気を揉む事はない。

 あの痛痒い感情に胸を掻きむしる事はない。


 その喪失感が余りにも大きい事に気付かされ、わたしは声を出さずに泣いた。


 父の部屋からこっそり借りてきた村下孝蔵の『初恋』をリピートしながら、1時間ほど枕に顔を埋めていると、溢れ出た感情が底をついてしまったようだ。鏡を見ると、赤くなった目は薄ら濡れてはいるものの、眉間の皺は幾分マシになっていた。


「穂乃果ー! ご飯よー」


 階段下から聞こえる母の声。


「もうちょっとしたら行くから、先食べててー」


 そう返したあと、鏡の前で笑顔を作ってみる。

 上手く笑えた。

 多分、明日からも笑っていられる。


 私は大丈夫だ。


 明日からも、きっとこれからも、ずっと。



   △



「慎三郎、わたしに隠していること、あるでしょ」


 夕食に作ったすき焼きの肉を食べ尽くし、追加投入したうどんを啜っていた慎三郎は、熱さのせいか動揺のせいかわからないが、しばらく咳き込んでからわたしを見た。


「え、なんで?」


「だって、最近様子がおかしいもん。わたしが気付いてないと思った?」


「いや、えっと、そんなことないよ、ほんと」


 明らかに狼狽している慎三郎の様子から、自分の推察が当たっている事を確信する。しかし、当たっているとすると、それが好ましい事柄ではないことも、彼の様子から伺えた。

 空白期間があったにせよ、わたしは小さい頃からの慎三郎を知っている。慎三郎が嬉しい隠し事をしている時は、溢れ出そうな笑顔を必死で抑え込んでいるような、頬の吊り上がった顔で話す。隠そうにも隠しきれない、クセみたいなものだ。

 しかし、今の慎三郎は触れられたくない傷口を隠すように、怯えた表情を必死に取り繕っている。こんな表情をする時は、決まって良くない隠し事をしている。

 わたしの人形の首を取ってしまった時、わたしがお気に入りだった靴を汚してしまった時、わたしの買っておいたケーキを食べてしまった時、慎三郎はいつもこんな表情でぺこぺこと謝る。


 そう慎三郎に告げると、彼は覚悟を決めたのかシェラカップと箸をテーブルに置いた。


「実は、来年県外へ異動の辞令が出ていて」


 異動、か。

 確かにそれはなくはない話だった。

 慎三郎の会社も全国展開しているので、地区内での異動は結構頻繁に起きるものなのだと以前聞いたことがあった。『自分は出世コースから外れているから、異動はあり得ない』そう言って自嘲気味に笑う慎三郎を覚えている。より上位の役職に就くためには、様々な職場を経験しなければならない、みたいな風潮はどこの社会でもあるようだった。

 これは、慎三郎にとっては、嬉しい話なのかもしれない。

 自分の仕事が認められ、次のステップへの梯子が掛けられた時の何とも言えない充足感は、わたしだって体感したことがある。

 そして、この話を断れば、梯子は外され再び掛けられることは無い。


 おそらく、昔の慎三郎であれば、迷いなく異動を快諾しただろう。

 しかし今の慎三郎には、安易に首を縦に触れない理由がある。


 それは多分、私の存在。


「何年くらいになるの?」


「多分、3年か、それ以上か‥‥。穴埋めの異動だから、自分が抜けても問題ない仕組みを作れれば、最短でこっちに戻ってこれるのかもしれない」


「3年か」


 それは、大人の時間で言うと、そこまで長くはないのかもしれない。30歳を過ぎてからのここ数年は、それこそ光陰矢の如しで過ぎていった。

 しかし、理屈とは裏腹に、感情がそれを納得していない。

 寂しいのだ、シンプルに。


「それで、慎三郎は受けるの?」


「それは‥‥悩んでる」


 わたしの事を一番に考えて、この話は辞退するーーそう断言してくれる事を心のどこで期待していた自分に気付き、そんな己の弱さに落胆した。


 長期的に見れば、この異動だって悪い話ではない。お互いにステージを高め合いながら生きて行くことが、わたしの理想とする人間関係ではなかっただろうか。

 世の中の流行は目まぐるしく変わり、今踏み締めている地面だって、いつ崩れ落ちるかわからない。そのためには、常に動き続けなければならない。足踏みしたり座り込んだりして同じ場所に止まり続ければ、いつか致命的な亀裂が2人の足場を引き裂いてしまうだろう。

 ここ数ヶ月のキャンプ経験で、慎三郎と2人なら、足並みを揃えて進み続ける事が出来ると確信した。


 だからわたしは、慎三郎との未来を選んだんじゃなかったのか。


 そう、自分を鼓舞する。


「いい話じゃん。行って来なよ」


 去勢を張っていることが、悟られないだろうか。


「でもさ」


「3年だろうと、5年だろうと、私が待てないと思った?」


「でも、辛いだろ?」


「は? 辛くないし。ていうかさ、わたし浮気とか面倒なことする気ないから、ちゃんと責任とってよね。婚期を逃しかけている女の執念は怖いよ」


「それは、もちろん」


「じゃあいいよ。そこさえしっかりしてくれれば、あとは今後のために給料を上げることに尽力して下さい」


「いいのか?」


「何湿っぽくなってんの? 異動なんてうちの会社でも良くあることだし、もしわたしが異動になったら、そっちにも待ってもらうからね」


「それは、そのつもりだけど」


「ていうか、同じ国内だし、車で4時間くらい? じゃん。たまに会って向こうでキャンプしようよ」


「ああ、そうだね」


「楽しみだなー、どんなキャンプ場あるんだあろう? 慎三郎も色々調べといてよ」


「わかった‥‥」


 饒舌すぎるだろうか。

 ただ、何か喋らないと、重たい沈黙が訪れそうで怖かった。


 折り合いがつかない理性と感情。

 それをどうにか同じ心という箱の中に押し込もうとして、わたしは必要以上に言葉を繋いだ。


 高校生の頃、枕に顔を沈めた日を思い出す。

 あの時は、もう二度と慎三郎に会うことはないだろうと覚悟していた。


 今の私たちは、お互いがちゃんと通じ合っている。


 あの日の離別に比べれば、これくらい。



   △



 しゃべり続けて疲れたのか、穂乃果はぼんやりとキャンドルランタンを眺めている。


 そして僕ーー桑野慎三郎もまた、小さな焚き火に薪をくべている。


 穂乃果が無理して強がっている事は、僕にだってわかる。

 だけど、自分の感情を押し殺してまで僕の背中を押してくれた事に、僕は敬意を持って応えていかねばならないと思う。

 僕自身も、寂しさと不安から、心のどこかで穂乃果に止めてほしいと思っていた。穂乃果に止めて貰えば『恋人の意見を尊重した』と言う免罪符を持って、胸を張ってこの話を断る事ができた。それを期待してしまっていたのは、変化を怖がり安楽な場所に留まりたがる性質が、今もまだ僕の根底に存在しているからだと思う。


 キャンプを始めた。


 快適な部屋から離れて、不便な生活に身を投じた。


 時間の止まった自室を抜け出す事で、僕はさまざまな経験を得て、様々な感情を覚え、一つの大切な存在を作る事ができた。


 もしあの時、キャンプの誘いを断って、同じ場所に留まり続けていたらーーきっと僕はこの瞬間も、あの狭い部屋で、白い天井を眺めていたと思う。


 夜空を見上げる。

 黒い空を、さらに黒く染めていた雲は、いつの間にか薄く散っていた。


 焚き火に薪がくべられる。

 僕じゃない、白く細い手。

 火の粉が、星のように舞う。


 椅子を並べ、隣に座った穂乃果が、無言で焚き火を眺めている。


 先程焚き火に薪をくべていた白い手が、今度は僕の左手に伸び、その指先を強く握った。

 僕もその手を、より強く握り返す。


 火を見て、これまでの2人の日々をそこに映しながら、夜は更けていく。



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