目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第33話:7回目 高規格リゾートキャンプ①

    異動の事について、穂乃果に何も伝えられぬまま、僕は今回のキャンプ地である某高規格キャンプ場に車を走らせていた。


 返事は3週間ほど待つので、時間をかけて考えてくれて構わない、と所長は言った。今の勤務地が地元ということもあり、異動となると親族への確認も必要であろう、との厚意からだった。親の介護や、跡取り云々の話である。幸いなことに自分の両親は今も矍鑠としていて、僕の異動に関連して実害を被るような状況ではない。


 問題、というか自分の判断に二の足を踏ませているのは、やはり穂乃果ほのかの存在だった。


 始まったばかりの二人の生活。

 それがこんな不本意な形で中断を余儀なくされるのは当然悲しい。悲しいし、そしてもしかしたら、これは中断どころの話ではすまない可能性すら、頭の片隅に浮かんでくる。

 異動先での勤務は何年程度になるのだろうか。他の同僚が異動した事例を思い返してみても、良くて3年、長ければ次の勤務地を言い渡されるまでほぼ永久的に、次の勤務地に根を張らねばならない。


 それだけの期間、僕らは離れ離れでいられるのだろうか。


 穂乃果は、そんな僕をいつまでも待ち続けてくれるのだろうか。


 インターネットを検索し「遠距離恋愛」とキーワードを入力する。表示された幾つもの体験談は、そんな僕の不安を煽るようなものが大半だった。


 この異動の話を断ることも、当然出来る筈だ。恐らく出世の道は完全に絶たれてしまうだろうが、その程度と言えばその程度の問題だ。

 しかし、それだけの問題だ、と簡単には割り切れないでいる自分もいる。

 出世して給料を上げたいとか、偉くなって周りから優遇されたいとか、そう言う心情とはまたちょっと違う。そもそも僕はお金にそこまでの執着はないし、他人を管理する立場に身を置ける人材とは到底思えない。


 ただ、なんだろう、嬉しかったのだ。


 僕は今まで、与えられた目標より少し上の成績を、ただ愚直に維持してきた。それは華々しい経歴とは言えず、上司から苦言もなければ期待もない、僕はそんな、部屋の片隅に置かれた観葉植物のような存在だったと思う。

 しかし、優秀で華々しい成果を出していた先輩社員の穴埋めとして、多々いる社員の中から自分が抜擢された。そこには地区内のパワーバランスとか、異動に伴う負担の大小とか、指示を断らない忠誠心とか、そういう様々な要因が絡んでいることは察しがついている。けれども、部屋の片隅で立ち尽くすだけだった僕に、新たなステージへの枝葉が伸びたことだけは確実だった。


 自分を試してみたい。


 その機会を与えてもらえた事が嬉しくて、その感情が僕の決断を鈍らせる。



   △



 国道沿いに、高級そうな別荘が並んでいる。


「なんか私たち、場違いな所に来てるんじゃない?」


「いや、多分大丈夫っしょ」そうは言ったものの、別荘の駐車場に止めてある高級外車のエンブレムが、僕の国産中古コンパクトカーを嘲笑っているかのようにも見える。


 しばらく走るとおおきな看板と矢印が、今回の目的地を指し示していた。

 この高規格キャンプ場は、某高原の湖付近に作られた、複合リゾート施設の一角にある。施設内には温泉、温水プール、レストランやお土産売店を複合した管理棟や、コテージ、グランピング施設、貸別荘など、様々な施設がある。今回僕らはその中にあるオートキャンプ場に宿泊する予定なのだが、キャンプを含め施設内の宿泊者は、無料で温泉や温水プールを利用する事が出来る。


 受付を済ませ、渡された施設内マップに従って目的のサイトを目指す。サイト数は100近くあるが、案内看板があるのでなんとかサイトに到着する事ができた。設営中も巨大なキャンピングカーや、高級会社SUVなんかが道路を往来し、若干萎縮気味の僕らであった。


 いつも通り設営を済ませ、いつも通りコーヒーを淹れて飲む。

 空は青く晴れ渡り、少々の悩みなど打ち消してくれそうなほどに明るい。

 しかし青空の片隅に所在なさげに浮いている雲のように、僕の悩みは隅に追いやられはするものの、決して消える事はない。


 会社から言われた返事の猶予期間はあとわずかしかない。早く穂乃果に伝えるべきだ、それはわかっている。

 でも、それを伝えた後の反応が怖かった。

『遠距離なんて無理だ』と無理矢理に関係を終わらせられるかもしれないし、穂乃果と会社を天秤にかけて悩んでいる事に対し『私と会社でどっちが大事か即決出来ないのかよ』と愛想を尽かすかもしれない。

 いや、そんな風にはっきりと拒絶を明言された方がいくらかマシだ。


 大学生の頃、付き合っていた彼女に他県での就職決定を伝えたところ、その彼女は悲しそうな顔で言った。

『私たち、離れていてもキモチは一つだよ』

 そのフワッとした安っぽい言葉に、当時のぼくは安心感を覚えたものだ。距離がどうとか、会えない時間がどうとか、そんなものは愛の力でどうにでもなると、若かりし頃の僕は意気込んでいた。

 でも、今思うとわかる。

 離れ離れになる事を伝えた際の、彼女の目。

 そこには、ついさっきまで含まれていた愛情という成分は、完全に消え去っていた。


 彼女はその1ヶ月後に地元の男と付き合いはじめる。離れていてもずっと一緒と言われた、その『キモチ』とやらは、離れる前にすでに分離してしまったわけだ。


 これは単なる昔話。

 ただ僕は、愛情が一瞬で消えた時、人がどんな目をするか知っている。

 そして同じ目をした穂乃果が、フワッとした慰めの言葉を呟いた時、きっとこの関係の終わりを理解するだろう。


 それは、悲しみや、怒りの感情をぶつけられるよりも、よっぽど怖い意思表示だと思う。


「あのー、慎三郎さん?」


「‥‥ん? え!? なに!?」


「さっきから話しかけてんだけど、なんで無視してくれちゃってんの?」


「あ、わるい」


 自分の世界に入り込んでいた事に気づき、反省する。今はこのキャンプを楽しむ事だけに全力を尽くそう。


「えっと、なに?」


「コーヒー入ってないコップを何度も口に持ってってるから、おかわりいるの? って」


「あ、いや、いらない、です」


「ほんと大丈夫? 最近あんまり眠れないみたいじゃん。夜中もなんかぼーっとスマホ見てるし」


「仕事で、神経やられてるのかもしれない」


「あんま無理しないでよ。心配になる」


「ああ、大丈夫」


「それじゃさ、温泉行こうよ。どうやら水着で入れるガーデンスパがあるらしい」


 そう言って穂乃果は立ち上がった。

 僕ものっそりと立ち上がる。


 片隅に浮かんでいた雲は、徐々に空の青を侵食していた。

 神様とやらがいたとしたら、そいつに内面を覗き見られているような気がして、なんだか不快な気持ちになる。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?