「主任、田中係長が退職するらしいっすよ」
キャンプの夜を思い出しながらコーヒーを味わっていた僕ーー
パソコンの画面を眺めて、いかにも仕事している風を装っているが、先程彼が質問に来た時以降、自分のPC画面は全く変化していない。仕事が全く進んでいない事がバレるかもとヒヤヒヤしたが、そんな様子はなさそうだ。
「へー、そうなんだ」
同じエリアに分類されてはいるが、かなり離れた距離にある事業所の係長。最近WEB打ち合わせで顔を見た気がするけど、そこまで思い入れがあるわけではない。付き合いの浅い他人に、あまり興味を持てないのが自分の欠点だとは理解しているが、正直、へーそうなんだ、以外の感想が出てこないのだから仕方がない。
「どうやら起業するらしいっすよ。取引先の何社かが、独立しても田中係長に仕事をお願いしたいって言ってくれてるらしくて。いやー出来る男はちがいますよね」
「そうだねー」
「いつまでもこの会社だけにしがみついてちゃダメかもしんないっすよ。時代は起業っす」
「そうかもねー」
適当に聞き流してはいるが、人が定着しない社風は確かに問題かもしれない。適当に就職した会社で地元の事業所に配置されてから10年、そこそこ真面目に仕事をやってきたけれど伸び悩みの感はある。自分に管理職の資質があるとは思えないが、かといって末端の仕事を続けて行っても今後の発展が期待できない。しかし独立するような才覚もないのだから、ただただ会社の言う事を聞いて、課せられた仕事を滞りなく片付けていくしかないのだろう。
「彼女から言われてるんすよ、結婚したいなら、出世するか、もっといい会社に転職するかしろって。勝手言いますよね。サラリーマンなんて、よっぽど上にあがらなきゃ、結局は会社の言いなりの人生ですから。その辺わかってないんですよ、うちの彼女」
「大変だね」
「ほんとですよ」
佐藤君はひとしきり文句を言った後、ため息を吐いて去っていった。要するに彼女の愚痴が言いたかったのだろう。
あらかた仕事が片付いたので、終業前にメールをチェックする。今日、地区の会議で出張している所長からメールが入っていた。
『明日の17時から、面談は可能でしょうか?』
メールは全所員宛ではなく、僕のメアドにのみ送信されていた。思い当たる節は何もないけれど、とりあえずその時間は空いている。
『面談の件、承知しました』簡潔にそう返すと、ノートPCをたたんで立ち上がった。
△
「ただいまー、あー疲れたー」
キッチンで夕食の親子丼を作っていると、カバンを重たそうに抱えた
最近は僕の部屋で過ごすことが多くなった。僕のアパートの方がほんの少し会社に近いらしく、週の6日はこの部屋で寝泊まりし、たまに自分のアパートに帰っては化粧品や服を持って戻ってくる。
今日はビジネスバッグにパソコンと書類を詰め込んで帰ってきた。どうやら今日中に終わらせなければならない資料があるらしく、川上の奴が適当に納期を設定したせいだとブツブツぼやいていた。
「とりあえず、先に風呂入っちゃいなよ」
「うん、そうする。晩御飯ありがとね。明日は私作るから」
「無理すんなよ。明日も僕の方が早いと思うし」
「ううー、悪いね」
バスルームのドアが閉まる音、次いでシャワーの音。
一緒に暮らし始めて気付いたが、穂乃果は日常生活の殆どを仕事に費やしているようだった。大体の日は僕より遅く帰ってきて、風呂に入り、一緒に夕食を食べた後、缶ビールをちびちび飲みながらパソコンと睨めっこをしている。
とは言え、一応オンオフの切り替えには気をつけているようで、仕事をめちゃくちゃ頑張る日もあれば、のんびり僕と会話したり、どこかに飲みに出かける日も時々ある。そんな日は仕事の事など一切頭にないかのような、いつもの天真爛漫な穂乃果を見せてくれた。
これまで僕がみていた彼女は、結構レアなケースの穂乃果だったのだと知った。そして今までずっと、その僅かな日常の空き時間を僕と共有してくれていた事に、心の底から感謝を覚えた。
「いただきまーす」
二人向かい合って小さなテーブルに座る。大学時代から使っている一人暮らし用のちゃちなテーブルだ。本格的に二人で住むことになれば、いずれもっと大きなテーブルを買おうと話している。そうなるとこの部屋も手狭だし、もう少し大きなアパートに引っ越した方がいいだろう。勤務時間を考慮すると穂乃果の職場に近いアパートの方がいいと思う。移動時間を可能な限り短縮できれば、二人でいられる時間も自ずと増える。
そんな事を穂乃果に話すと「慎三郎はどんだけ私と一緒に居たいんだよ」と笑っていた。
今までだったら「別にそういうことじゃねーし」と言い返すのが定石だったが、最近はより効果的な反撃方法がある事に気付いてしまった。
「そりゃ、愛する彼女と一緒にいたいと思うのは同然じゃね?」
そう返すと、穂乃果は赤くなって俯いて何も言わなくなる。そんな彼女のつむじを見ながら、僕は心の中でガッツポーズをするのだった。
「次のキャンプ、このちょっとお洒落なキャンプ場に行ってみたいな」
仕事が一段落ついた穂乃果は大きく伸びをすると、スマホを操作し、キャンプ場のURLをLINEで僕に送った。ガンプラをいじっていた僕もスマホを操作し、そのキャンプ場のHPを眺める。
「こ、これは、めちゃくちゃ高級なとこじゃん」
「たまにはいいでしょ、こういう贅沢路線も」
「ソロキャンで野営を経験した身としては、ギャップで口から内臓を吐き出しそうだ」
「釣り上げられた深海魚かよ」
「うわ、この発言に的確なツッコミが入るとは思わなかった」
「当然でしょ」
「ここ、すごいな。温泉に、温水プールも併設されてるってさ」
「水着買わなきゃ」
「僕は泳げないので」
「え、水着見たくないの?」
「見たい」
「あ、奇跡的に再来週が空いてるみたい!」
「よし! 予約しとく!」
次のキャンプ地も決まり、順風満帆な二人の生活。
薄暗い部屋、隣の枕で寝息を立てている穂乃果の寝顔を見る。
この非日常的な風景は、コーヒーに垂らしたガムシロップのように、いつの間にかなんの違和感もなく日常へと溶け込んでいる。そのほろ苦くも心地よい甘味は、カーテンの隙間から漏れ入る月明かりによって包まれ、僕の胸の奥底へと流れ込む。
指先でカーテンを開く。
夜空には満月を少し過ぎた、少しだけ不恰好な月が浮かんでいた。
△
仕事を手短に終わらせ、17時に所長の机へと向かう。所長は事務室の隣の応接室への移動を指示し、僕と所長はソファーに向かい合って座った。
「昨日の会議で決まったんだが」そう前置きして、所長は僕の目を見た。これからの一言一言が辿るであろうこの話の結論に、僕がどのタイミングで勘づくのか、それを読み取ろうとするかのように。
「田中君が辞めるって話は、聞いてるか?」
「噂話程度ですけど」昨日の佐藤君の話を思い出し、頷く。
「今年一杯で辞めることになったんだが、そうなると人員が足りなくてね。どこかから補充しなければならない」
僕はもう、所長の言わんとすることを理解した。
僕の表情の変化に気付いたのか、所長は小さく頷いた。
「この穴を埋められるのは、地区では桑野君しかいないと部長からの指名があった。来年からあちらに異動してもらいたい。もちろん、相応の役職は付ける予定だ」
どこか現実感がない。
上の空の僕は、今週末の穂乃果と新しいアパートを下見に行く約束を思い出していた。
そしてそれが、今この瞬間に何の意味もない約束に変わってしまった事に気付き、どうしようもない虚無感に襲われた。