20時を過ぎると、窓を揺らす風の音は小さくなり、入れ替わるようにして秋の虫の鳴き声が聞こえ始めた。
テレビを消してカーテンを開けると、視界の隅、木々の隙間から満月が覗いていた。
メインのフレームが折れた事で、設営は完全に不可能になってしまった。途方に暮れる僕らだったが、いつまでの落ち込んでいてもしょうがない。管理棟でチェックアウトする旨を伝えると、応対してくれたオーナーさんは「それならば‥‥」とキャンセルが出たコテージ一棟を使用しても構わないと提案してくれた。おめおめと引き返すほかないと思っていた僕らにとって、この提案は実にありがたかった。キャンプとは少し違うけれど、コテージ泊もそれはそれで楽しそうだ。切り替えていくしかない。
夕食に焚き火で作る予定だった豚汁は、結果的にはガスコンロの上に鎮座している。半分ほどが食べられ、もう半分は明日の朝ごはんになる予定。
夕食後にぼんやりテレビを眺めていると、先に風呂に入っていた
「けっこう広かったよ。慎三郎も入んなよ」
「ああ」
バスルームに向かい、少し温くなった湯船に身体を沈める。お湯を注いで温度を調節しながら、湯気で水滴の溜まった天井を見上げた。こんなふうに風呂で疲れを癒せるのなら、コテージという選択もなかなか悪くないのかもしれない。
風呂から上がると、穂乃果がソファーに腰掛けて漫画を読んでいた。テーブルにはビールとシェラカップが2つ並べてある。僕が穂乃果の隣に座ると、漫画を置いてカップにビールを注いでくれた。
「お疲れ」
「うん、お疲れ」
金属が触れ合い小さく鳴る。
「テント、メーカーの方に送れば修理してくれるみたい。大体二週間くらいかかるって」スマホの画面を見せながら穂乃果が言う。
「そっか。しかし、風はヤバいね。まさか壊れるとは思わなかった」
「多分、構造的に力が掛かると壊れやすい方向があるんじゃない? いずれにせよ、風の時の強行突破は愚策なようだ」
「教訓にします」
ソファーで隣に並んでビールを飲む。
僕のアパートだとソファーがないし、小さいテーブルが一つあるだけだから、必然的に向かい合って過ごすことになる。
こんなふうに並んで座るのは、実はあまりない経験だと言うことに気づき、なんだかもやもやした感情が吹き出してくる。柔らかいソファーは、少しでも体重の均衡を崩すと、よからぬ方向に沈み込む。穂乃果を意識してそらに体重が傾くと、勝手に身体が倒れ込んで、肩が触れ合うかたちになった。
穂乃果は意に会する様子もなく、真剣に漫画を読んでいる。
「今日は何読んでんの?」
「え、『ぼくらの』」
「ああー」相変わらずチョイスがなんとも言えない。名作ではあるけれど。
スマホを眺めてはみるものの、焚き火が出来ないとなんだか手持ち無沙汰だ。
普段と違うシチュエーションに気持ちは高揚しているにもかかわらず、それを発散する術がないため、どうにも釈然としない感覚だ。
そもそも僕は、焚き火をしたいがためにキャンプに来ているのかもしれない。料理2割、お酒2割、焚き火6割って感覚だろう。これじゃ、どうしたって満たされない。
焚き火をしたい。
焚き火をしたい。
気付くと、穂乃果がこちらを見ていた。触れ合った肩に力が込められる。穂乃果の方からも、肩をこちらに押し付けているのかもしれない。
風呂上がりの熱と、アルコールによる身体の火照りが、彼女の頬を赤く染めている。
「あのさ‥‥したいの?」
「うん」やはり僕は焚き火がしたい。
穂乃果は困った顔で一度目を逸らし、なぜか恥ずかしそうに再び僕の目を見て、また逸らした。
「いや、その、確かにここはコテージだし、テントじゃダメって言ったけど‥‥それに、今日は持ってきてないでしょ」
「え、持ってきてるじゃん」
「持ってきてんの?」
「当然だろ、いつも持ってきてるよ」
「はあ? 財布に入れてるとか?」
「え? 財布に入る訳ないじゃん」
「財布に入らないって、どんなの買ってきたのさ! 私やだからね、そういうアブノーマルなやつ!」
「アブノーマルって、いつもの焚き火台じゃん」
「は?」穂乃果は目を見開き、半口を開けている。鳩が豆鉄砲を食らった顔とは、正にこんな顔なのだろう。その様子と、会話の流れで、僕は穂乃果が何と勘違いしていたのか察しがついた。
「したいのって、焚き火?」
「そうだよ。え、穂乃果、なんだと思ったの?」
「うっさい」
「どうしたのほのちゃん、顔真っ赤だよ?」
「うっさい! しね!」
こうして、しばらくの間、穂乃果に反撃できるネタを手に入れる事ができた。いつもやられてばかりなので、この強力な武器の獲得は非常にありがたい。
△
利用規約を読むと、庭の一区画で焚き火が出来るらしい。風は落ち着き、微風に変わっているため、僕と穂乃果は外に出た。
焚き火台を組み立て、椅子を並べ、台にビールを並べ、小さく割った薪に火をつける。
もはや慣れたもので、火は簡単に安定した。
僕らは変わっていく。成長と称される肯定的な意味でも、衰退と称される否定的な意味でも。
今の僕たちは、子供の頃のように着火に戸惑うことも、お互いの距離感が分からずに戸惑うことも減った。でもそれが全て肯定的な変化であるのかは、実は断言できないのかもしれない。
緩く結ばれた紐は、簡単に解けても、結び直すことができる。でも、固く縛った紐を二つに分ける場合は、切断するほかない。
僕たちが再び二つに分かれる事はないだろう。
ないと思いたい。
しかし、もし否が応にも二つに分かれる日がきた時、その離別の痛みは計り知れない。
穂乃果の瞳に炎が映る。
「コテージ泊も、悪くないかもね」未来に向けたちょっとした約束、その積み重ねが、結ばれた紐をより強固にしていく一助になると信じてぼくは言う「この日は、毎年コテージ泊の日にしようか。テント破損記念日、的な」
「そういう、教訓を含んだ日は確かに必要かもね」穂乃果はそう応える。僕の意図を感じ取っているかわ分からない。でも、それでいい。
台風の過ぎ去った空はどこまでも深く、星は遥か遠くで輝き、僕らに秋の訪れを感じさせた。