目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第29話:6回目 慢心アクシデントキャンプ①

 進路を変えた台風だったが、その余波は木々を大きくしならせている。徐々に色づき始めた木の葉は細枝に精一杯しがみ付いていたものの、やがて力尽き風と共に灰色の空へと消えた。


 この林間キャンプ場は、ネット評価ではそこそこの人気のキャンプ場だったが、台風の進路上に位置するため数日前からキャンセルが相次いだらしく、サイトに停まっている車は疎らだった。結果として台風は海側にそれ、最後までキャンセルを渋っていた僕と穂乃果ほのかはキャンプを決行した訳だが、いつ止むとも知らない強風にうんざりしつつ、車のフロントガラスから揺れる木々をぼんやりと眺めるのだった。


「やめときゃよかったかもね」


 穂乃果が言う。

 僕は長い溜息を吐いた。



   △



「決行しよう」


 出発前。

 行くか止めるか頭を悩ませたが、最終的には行くことに決めた。これを逃すと次のキャンプがいつになるか見当も付かないし、それまで疲弊したこの精神を維持できるかどうか不安だったからだ。

 来週には仕事で気が滅入るような大きな案件が控えており、それに心を痛めつけられる前に、せめて生き残れる程度には精神力を回復させておかないと、と妙に打算的に物事を考えてしまうのは歳をとったからかもしれない。

 昔は深夜の飲み会や徹夜ですら、若さと体力でなんとでもなってきたが、最近は何をするにもこの先一週間のスケジュールを鑑みて決断を下している気がする。思慮深くなってきたと言えば聞こえはいいが、臆病になってきたと言えなくもない。

 今回のキャンプも、人生という旅路を歩む途中で、精神をある程度回復できる「回復の泉」的な手段として捉えていたところもあるのかもしれない。


 まあ単純に『すごく楽しみにしていた』の一言で言い表すこともできるのだが。


 ソロキャンプを経て、再び始まった穂乃果との二人キャンプ。しかし、今の僕らは、これまでの僕らとは根本的に違っている、


 そう、今僕らは恋人同士。

 なんと甘美な響きだろうか。


 彼女と二人でキャンプを楽しむなんて、おそらく今の僕はこの世界の上位数パーセントに含まれる幸福層の人間に含まれるのだろう。

 やろうとしている事は今までと変わらないはずなのに、関係性が異なるだけで見える景色がこんなにも変わってくるものなのだろうか。ここ最近はそんな違和感を心から楽しんでいる。あらためて、人間は他者との関わりによって自分自身を形作っているんだな、なんてしみじみ思った。


「夕方には台風もだいぶ離れて、天候も回復していくって書いてるけど」テレビのデータ放送を見ながら穂乃果が言う「風はしばらく続くみたいだね」


「まあ、行けばなんとかなるでしょ。今までも雨や雷にあったけど、なんとかなってきたし」


 楽観的に答える僕。気持ちが上がると、ポジティブな予想が次々と浮かんでくる。雨は直ぐ止むだろうし、林間サイトだから木々で風が緩和するかもしれない。夜には台風一過の晴天で、星が綺麗に輝くかもしれない。


 今思うと、僕は短期間で様々なキャンプを経験したことで、妙に肥大化した自信と反比例してどこかしら危機感を無くしていたのだと思う。


 自分の向き合っている相手が、ちっぽけな人間じゃどうする事もできないような大自然だという事実を、すっかり忘れていた。


「夕食は何作る?」


 穂乃果が問う。


「豚汁作ろう、彼女の手作り豚汁って、なんか家庭的で素敵だよねー」


「ていうか、この前作ったじゃん」


「美味かったから、もう一回食べたい」


「じゃあ、今晩は和食で統一してみよっか」


「いいねー、恋人同士っぽい」


「うわ、うざい‥‥」


 穂乃果は呆れた様子だったが、それに気付いてもなお妙なテンションを貫き通すほど、この時の僕は浮かれていた。


「あの、言っとくけど」腕を組んだ穂乃果が溜息混じりに言う「テントの中では、変なことしちゃダメだからね」


「わかってるって」


 にやにやと笑う僕は、多分何も分かっていなかった。



   △



 日が暮れ始めている。

 風は一向に止む気配がない。


 天候はキャンプを大きく左右するファクターである事は言うまでも無い。とはいえ降り続く雨の中でも、キャンプを楽しもうと思えばいくらでも楽しむことができる。テントを立てる時に雨に降られてグジャグシャになる事は確かに不快だが、テントさせ立てられれば、あとはのんびり過ごすことは可能だ。

 しかし、強風は良くない。

 キャンプの実行自体を危うくするファクターだ。

 当然のことだが、風が強ければテントを立てることができない。テントを立てなければ、キャンプをキャンプとして楽しむ事が出来ない。キャンプの運命を左右するのは、風の有無なのだ。


 無理矢理にでも立ててしまえば、なんとかなるかもしれない。タープは流石に無理だけど、テントは流線型で風を受け流す形状だから、風が少し落ち着いた合間に高速で立てられれば‥‥、そう思いながらはや2時間、車の中で音楽を聴きながら、死んだ目で止まることのない木々のお辞儀を眺めている。


「今回は、諦めた方がいいんじゃないの?」


 スマホをいじりながら穂乃果が言う。


「いや、もう少し待てば‥‥」


「うーん、そう言ってから、同じアルバムが3巡目に突入している訳だけど」


「別の音楽にする?」


「いや、そういうことじゃなくて」


「お、少し風がやわらいだ! 今だ!」


「え、ちょっと、待ってよ!」


 これ以上待っていても埒があかない、強行突破するしかないと、僕は腹を括った。車から飛び出す僕と、それを追って助手席から出てくる穂乃果。


「急いでフレームを通して!」


「こっち通ったよ!」


「よし立てよう! 僕がペグダウンする!」


「分かった! 支えてる!」


 そう言った瞬間、とてつもない強風が吹いた。

 テントが不自然な形状に歪む。


 二人でテントを押さえつけながら風が吹き抜けるのを待つ。しばらくすると、風が徐々に和らいできた。


「あ、あぶねー、飛ばされるかと思ったよ」


 なんとか風をやり過ごし「大丈夫だったか?」と穂乃果に呼びかける。


 テントのもう片側を抑えていた穂乃果が「大丈夫、じゃなかったみたい‥‥」と答える。


 穂乃果の指さす先、テントのメインフレームが、接合部分で完全に折れていた。


 呆然とテントを見つめる僕たち2人に、更なる追い討ちをかけるかのように、再び木の葉混じりの強風が吹き付ける。

 2度目の強風を耐え切った僕らは、顔を見合わせて溜息を吐いた。


「やっちゃいましたね」と穂乃果。


「‥‥そっすね」正気の抜けた声で僕は応える。





この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?