昼過ぎから降り始めた雨が無秩序に伸びた草葉にあたり、小さな打楽器の放つ音色のように、規則正しいリズムを刻んでいる。無秩序と無秩序の掛け算が秩序立った音色へと転じる事実に気付き、この宇宙の真理に触れたような満ち足りた気持ちになったのは、なんだかセンチメンタルな僕の感情が、ほんの少しの色水で様相を変えてしまうほど無色透明に澄んでいたからかもしれない。
ふうこがテントを畳み、器用に原付スクーターの荷台に縛り付けていた頃、夏空には巨大な城壁のような入道雲が積み上げられ、やがて礫のような雨が地面に投げつけられる。
「やっぱり、私、不幸少女ですね‥‥」
予定していた帰宅を足止めされ、慌てて僕のテントに避難してきたふうこが、自虐気味にそう呟いた。
「山が引き留めてるのかもね」そう言ってはみたが、一向に衰えを見せないこの雨によって僕も予定を中断させられている。僕の場合はただその辺の小川をぶらぶら歩きたいというどうでもいい予定なので問題はないけれど、ふうこの場合そうはいかないだろう「山の天気は変わりやすいって言うから、そろそろ止むでしょ」
「お母さんに、遅くなりそうってLINE入れとかないと」
ふうこは俯いてスマホを操作する。雨に濡れた髪が幾つか束になり頬に張りついている。左斜め後ろに座った僕は、その髪の絹糸のような細さと柔らかさに、彼女の幼さを感じていた。とはいえ、雨に濡れたTシャツが肌に張り付いているその様相は、やはり目のやり場に困る。
僕はバッグからパーカーを取り出し彼女に羽織らせた。
遠くで鳴る雷の音。
「テントって‥‥カミナリ大丈夫ですよね‥‥」
「うーん、多分大丈夫じゃないかと」
「なんか、曖昧ですね‥‥」
「ぜったいだいじょうぶ!」
「‥‥‥」
雷が近づいてくるようなら車に逃げ込もうと考えていたのだが、一向にその気配はない。
前進も後退もしないまま、たまに吹く風で僅かに揺れるだけのこのテントは、止まった時の中で漂う船のようだった。
「キャンプ、楽しかったです‥‥」
ふうこが呟いた。
あまりにも小さい声だったので、雨音に掻き消されて聞き逃すところだった。
「それは、良かった」
「はい‥‥」
そこで会話が止まる。
しかしここ数日の付き合いで、彼女の会話パターンは概ね理解したつもりだった。これは次に続く最適な言葉を一生懸命考えているが故の沈黙だ。
「私、自信がなかったんです‥‥」やはり会話は続いている「その、自分自身の気持ちにも、自信が持てなかったんです‥‥。何が好きとか、何が嫌いとか、何が楽しいとか、何がつまらないとか‥‥、そういうことって、周りのみんなが思っている事に従っていれば、間違えたり、変な子だって思われたりすることがないだろうって、そんなふうに思ってました‥‥」
高校時代の自分に似ている。
「クラスの人達がふざけて、私のことを『不幸少女だ』って呼んだ時、それは私がまだ『みんなの好き』に『自分の好き』を重ね合わせられていないから、だから私はみんなから不幸に見えるんだろうなって、そう思いました。みんなが楽しいことを、楽しいと思えない自分は、不幸なんだろうなって‥‥。でも、多分違うんですよね。自分が好きな事を、好きと思わないように無理してる事が、多分不幸なんです」
「自分が楽しいと思える事、見つかった?」
ふうこは曇天の空を見上げて、その後ろに隠れているであろう太陽を引っ張り出してきたかのような、満面の笑みで「はい」と答えた。
好き、とか、嫌いとか、そういう気持ちは、他人が外側から勝手に決めつけられるものではない。他人から無価値に見える部分であっても、そこに輝きを見出す事だって当然ある。
『私には、この子が必要だから、この子を選んだんだよ』
海辺キャンプの時に、
僕は多分、穂乃果の『好き』を、勝手に決めつけていたんだろうな。
雲の切れ間から光が差し始める。
止まっていた時間が動き始める。
頑強な城壁とはいえ、一部の欠損が呼び水となり均衡を崩して倒壊することもある。光が差し始めてからの、天気の明転は早かった。
「雨、止みましたね」
「そうだね」
再び顔を出した太陽に目を細めながら、ふうこは少し名残惜しそう「もう、行かなくちゃ‥‥」と呟いた。
ふうこはテントの端で雨宿りさせていたスクーターに乗り込む。
雨に濡れた草が、サンダルを履いた僕の足先を濡らした。
「いろいろ、ありがとうございました」
「いや、こちらこそ、楽しかったよ」
「私も‥‥すごく楽しかったです」
「じゃ、気をつけて」
「はい」
「‥‥」
「‥‥」
原付のエンジン音の後ろで、雨を避けていた蝉達が再び鳴き始める。排気ガスの匂いと、雨に湿った土の匂いと、染み付いた焚き火の匂い。
雨上がりの風の涼しさは、なんだか夏の終わりと秋の始まりを予感させた。
知らず知らずのうちに、僕らはさまざまな出会いと別れを繰り返しているんだな。
「また、どこかのキャンプ場で会おう」
そんな僕の言葉に、ふうこは笑顔で頷いた。
△
誰もいなくなった野営場の夜は、前日までの夜よりも深く、暗く感じられた。
最終日の夜だけれど、手の込んだ料理を作る気分にはなれなかったので、クーラーボックスの奥底に押し込んでいた厚切り肉を網の上でじっくり焼き、塩胡椒を振りかけて口に入れる。結局はこれに戻ってくるよな、と嗅ぎ慣れた炭火の香りを口腔いっぱいに感じながら、無言で食事を進める。
雨の名残は完全に消え去ったけれど、少し肌寒い風と、遠慮がちに鳴き始めた夜の虫の鳴き声、そして遠くでもはっきりと輝いている星が、一つの季節の終わりを如実に示していた。
始まりがあるから、終わりがある。
出会いがあるから、別れもある。
でも、そのたった一つの出会いが、その後の人生を大きく変える転機になる事だってあり得る。
僕もキャンプに出会って変われた。
ふうこにとっても、このキャンプの経験が、人生を好転させるきっかけになってくれたら、それは僕の身には余るほど光栄な事だと思う。
僕は火を見つめる。
今終わろうとしている、この初めてのソロキャンプの記憶が観える。
観える景色は逆流を続け、いつもあの夜の小さな火に行き着く。今思えば、あの日もうすでに、僕の気持ちは変わっていたんだろうな。
1人飲むビールは、ほろ苦くも、ほんのり甘かった。