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第26話:5回目 付け焼き刃ソロキャンプ④

「あ、あ、ジャブローさん、つきました! 火がつきました!」


「おっ、ふうこ上手だね! もう少し火が大きくなったら、この細めの薪を格子状に焼べていって、火が安定したら、この太い薪を入れてみて」


「は、はい! なんか、緊張しますね‥‥」


「いやいや、もう少し気楽にやっていいんだよ」


 スーパーからキャンプサイトに戻り、お互いの呼び方に困るという事で、遅ればせながら名乗り合う流れとなった。

 少し考えた後、僕は若い頃にネット上で名乗っていたハンドルネームを伝えた。慎三郎しんざぶろうの『ざぶろう』の部分と発音が似ている事と、なんだかガンダムっぽいという理由で、好んで使っていたハンドルネームの一つである。


 あえて本名を名乗らなかったのに、誰もが納得出来るであろう明確な理由があったわけではない。僕が本名を名乗ることで、この女の子にも本名の開示を暗に強要してしまうのではないかという危惧も多少はあった。でもそれよりも、この『自分という肩書きをなくした状態での他者交流』に、妙な充実感を覚えていた事の方が大きいかもしれない。

 お互いが本名で呼び合う様子を想像すると、自由な空を浮遊していた自分の魂が、現実の匂いが染みついた肉体へと引き寄せられていくような窮屈さを感じた。可能ならば、互いに素性を明かさない微妙なバランスの上で成り立っている、この心地よい距離感を保っていたい。


 そんな僕の考えを知ってか知らずか、女の子も自らを『ふうこ』と名乗った。

「あ、これ、本名じゃないんですよ」名乗った後にそう付け加える「私、不幸少女って呼ばれた事があって‥‥ふうこ、は、ふこう、を捩ってます」


「あ、そうなの、へー‥‥」


 名付けの理由は返答に窮すものだった。

 彼女はクラスメイトからいじめられているのだろうか? そう訝って反応に困ったが、本人があっけらかんとしているところを見るに、第三者があえて心配するべき事ではないのかもしれない。


 そして、お互いを「ジャブローさん」「ふうこ」と呼び合うこの不思議な関係のまま、2人のソロキャンプは2日目の夜を迎えた。



   △



 焚き火の上に網を敷き、鍋を置く。

 鍋の中には水と、玉ねぎ、にんじん、じゃがいも、そして牛肉の塊を不揃いに切り分けて投入している。後は灰汁を取りながら煮込み、ルーを入れて更に煮込んだら完成だ。


 揺れる火を興味深そうに見つめるふうこ。

 細い薪を火の中に差し込み、その先端に赤い火が灯りやがて黒く変色していく様を、初めてのおもちゃに見惚れる子供のような目で見つめている。


「ジャブローさん」


「なに?」


「火って、落ち着きますね」


「そうだね」


 僕は缶ビールのプルタブを開け、一口飲んだ。焚き火と、夏の残火によって火照った身体に、冷たい炭酸が心地よい。

 クーラーボックスからサイダーを取り出しふうこへと差し出すと、彼女は目を丸くしてペコペコと頭を下げた。なんとなくのチョイスだったが嫌いな飲み物ではなかったようでほっとする。彼女は火を見つめながらキャップを開け、丁寧に口に含み、飲み込む。透明なサイダーの容器の中で、焚き火が小さく揺れている。


「ジャブローさん」


「ん?」


「私、焚き火のやり方、わかってきました。あの、ありがとうございます‥‥」


「いえいえ、どう致しまして」


 ランタンの灯が白く輝く。孤独な宇宙の闇に浮かぶ、一つの恒星のように。

 光に呼び寄せられた虫がテントの表面に付着した。火星に不時着した宇宙飛行士のように、一歩一歩を確かめるような足取りでテントの上を這い回っている。

 虫の1匹がふうこの白いTシャツの背にとまった。僕の視線は彼女の背を這う虫に移り、やがて彼女の肩甲骨の僅かな隆起に移る。

 言ってあげるべきだろうか、それとも無言で払ってやるべきだろうか。考えながら、華奢な背中に自分の手が触れる様子を想像し、そのあまりに無遠慮なイメージに辟易して、伸ばそうとしていた手を引っ込めた。

 そうこうしてる間に、虫は再び飛び上がり、ランタンにぶつかって地面に落ちた。


「ジャブローさん」


「どうした?」


「ジャブローさんって、なんか先生みたいですね」


「先生?」


 自分の持つセルフイメージとは明らかに異なるその感想に僕は驚いた。


「なんだか落ち着いてて、キャンプの事色々知ってて、それをわかりやすく教えてくれて‥‥。私のキャンプの先生です」


「いやいや、僕はまだ初心者だよ。今年キャンプ始めたばかりだし」


「うーん、だからこそ、なんじゃないですか。まだ初心者に近いからこそ、初心者の気持ちがわかる、っていうか」


「そういうもんなのかな」


「はい‥‥。なんだか、キャンプが好きな自分に自信を持ってるっていうか‥‥。かっこよくて憧れます」


 そう言ってふうこは、僕の反応を確かめるようにほんの少し振り向いた。そして僕と目が合い、再び火の方へと視線を移す。


 数ヶ月前の僕は、家からほとんど出ない引きこもりだったんだよ。

 そう言おうとして、やめた。

 多分、この子にとっての僕は、キャンプに対して揺るぎない信念を持った『キャンプの先生』のままであるべきなのだろうと、そう思ったからだ。


 思えば、他人の意思に流されながら生きていくのが自分の生き方なのだと、どこかで勝手に定義づけていたのかもしれない。自分の意思は路上に舞い落ちた落ち葉よりも軽く、踏みつければ粉々に砕けてしまうほどに脆弱だと、そう思っていた。


 でもそれは思い込みだったのかもしれない。


 人里離れた山の中で、意思薄弱な『桑野慎三郎』から離れた僕は、キャンプ場で初めて会った女の子から羨望の言葉を得られる程、キャンプに打ち込み、楽しんでいる。それは紛れもなく、僕自身の意思から来る行動だ。


 僕は、変わったのかもしれない。


 キャンプを始める前の自分と比べて、キャンプを楽しんでいる今の自分が、なんだか誇らしく感じられた。


「ジャブローさん」


「ん?」


「そろそろ、食べられるんじゃないですか、これ‥‥」


 ふうこが鍋の蓋を開ける。

 鍋の垢では褐色のシチューが波打っている。


「私、もう限界です‥‥」


 片手で胃の辺りを押さえているふうこに気付く。お腹が悲鳴を上げないようにするための仕草なのだろうか。ああ、この子はこう見えて大食いだったよな、そんな事を思い出し、これ以上シチューを煮込み続けるのは流石に酷だろう、との結論に至る。


「そうだね、そろそろ食べようか」


「やった!」


 今日一番大きな声だった。

 飛び上がったふうこがお腹から手を離した瞬間、低い唸り声が静かなキャンプ場に響いた。


「あ、ああぁ」


 赤面するふうこ。


「あれ、もうふくろうが鳴き始めたようだな」


 咄嗟に僕は言う。

 この反応がレディーに対しデリカシーがある発言なのかはわからないが、夜の闇に隠れる謎の生物のせいにしておけば、全ては丸く収まると思ったからだ。



   △



 ふうこが自分のテントに帰った後、椅子にもたれてコーヒーを飲みながら、僕は今日までのソロキャンプの出来事をぼんやりと思い起こしていた。

 3泊4日のキャンプも、今日で2日目の夜だ。明日の3日目の夜が明けた時に、当初の目的の通り、僕は何かを掴めているのだろうか。穂乃果ほのかに対し、面と向かって自分の気持ちをつたえられる男になれているのだろうか。

 そんな疑問が頭を過ぎるが、その答えは既に分かりかけている事に気付く。


 僕は、既に変わっていたんだ。

 キャンプを初めて、穂乃果との共同作業を続けるうちに、気付かぬ間に少しずつ。


 キャンプが好き、ガンダムが好き、お酒が好き、穂乃果が好き。そんなふうに、自分の好きなものに自信を持てる生き方。


 そんな憧れの生き方は、今までそれは遠い遠い星の光のような存在だと思っていたけれど、実は目の前で燃えるこの焚き火だったのかもしれない。


 何も干渉することが出来ない、昼と夜の入れ替わりや雲の流れなどで見えなくなってしまう星の光とは異なり、目の前の火は僕のくべる薪によって如何様にでもその大きさを変える事ができる。

 僕の好きは、僕の自信は、僕がどのようにでも変えていくことが出来る。


 僕は自由なんだ。


 好きなことに対しても、嫌いな事にないしても、自由でいていいんだ。


 そんな事を考えていると、だんだん眠くなってきた。明日の朝はふうこに朝食を作ってあげると約束したので、寝過ごすわけにはいかない。

 炊事場で歯磨きを終え、テントに寝転ぶ。

 小さなLEDランタンの灯りに照らされて、小さなクモがテントの中に巣を張ろうと歩き回っている。

 その勤勉な労働を眺めながら、僕はいつしか眠りについた。




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