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第25話:その頃、穂乃果は

 もうすぐ夏が終わる。


 あいも変わらず照りつける太陽が、Tシャツの首元を湿らせる。蝉はいつも通り騒がしげに歌い、熱せられたコンクリートの上で夏の空気が踊っていた。


 たかだか数十キロメートルの帰省に、このいい加減にうんざりするような夏の風景を変えてくれる力など、期待する気持ちはさらさらない。ただ、ごみごみした地方都市から離れ「故郷」と呼ばれる場所の空気に身を包まれた時、何故かほんのりと「夏の終わり」の匂いがした。

 それは夏休みの終わりに感じていた、あの退屈と後悔と希望が入り混じった感覚に似ている。

 扇風機の前に寝転んで、氷の溶け切った麦茶を舐めながら嗅いだ、祖母の茹でるそうめんの匂いに似ている。


 私ーー佐々木ささき穂乃果ほのかにとって、実家はそんなノスタルジーの集合体だ。亡くなった祖母の代わりに自分で素麺を茹でながら、一人夏の終わりに想いを馳せるのだった。



   △



 慎三郎しんざぶろうの実家の前を車で通る時、密かにある事を予想していたあいつの車が不在だった事で、ほんの少し落胆する。


 海辺キャンプから1週間。


 夜、眠り際に言った告白めいた言葉は、今思い出しても赤面してしまう。そして羞恥心の後には、ほんの少しの悲しい気持ちが、隙間風のように入り込んでくる。


 色々な事柄を天秤にかけ、側から見れば私なんかに勿体ないとも言えるような誘いを断って、私はあいつとのキャンプを選んだ。

 その決断が間違っているとは思っていないが、当の慎三郎本人にこの決意が伝わっていないのが悲しかった。


 慎三郎が情けないとか、弱いとか、そんなこと全く思っていない。むしろ最近のあいつは頼もしささえ感じる瞬間がある。


 確かに今までの私は、一緒にいれば楽でいられる癒しをあいつに求めてはいた。けれど二人でキャンプを始めてからは、共に悩み、支え合い、道を切り開いていける『パートナー』としてあいつを見るようになっていた。


 あいつにも気づいて欲しいかった。

 去年の夏より、今年の夏の自分が、どれだけ大きくなっているのか。


 主観的にも。


 そして私の中でも。 


 そんな事を一人で考えていて、ふと、今思っている気持ちを何一つ慎三郎に言葉で伝えていない事に気づいた。


 大事な気持ちは、きっと言わなくても伝わる、そう考えていた結果が過去の失恋の一因でもある。

 あの頃の自分が、日々感じていた愛情や不満を直接相手に伝えられていれば、あるいは今とはまた違った人生を歩んでいたかもしれない。

 今の人生に後悔などない。

 ただ過去を教訓として、同じ轍を踏むわけにはいかない。


 伝えよう。

 今の気持ちを、ちゃんと。



   △



 茹で過ぎて栄養失調のうどんのようになってしまった素麺を胃に落とし込み、居間でテレビを見ながらダラダラ過ごす。


 最近忙しかったせいもあり、正月以降実家に帰っていなかったので、お母さんが近況についてあれこれ聞いてくる。

 私が慎三郎とキャンプに勤しんでいると伝えると「あのしんくんがねぇ」と驚いていた。お母さんの中の慎三郎は、今でも近所の引っ込み思案でインドア派なお子さんのままなのだろう。


 今度お父さんや沙耶香(さやか)(妹)も一緒に、四人でキャンプに行こう、と誘うと「いいわねそれ。カレー作ろうかしら」と満更でもない様子だった。


 実家の本棚に置きっぱなしの小説を読んでいると、外は濃紺に染まっていた。

 秋の日はつるべ落としというが、夏の終わりの夕暮れもまた、つるべから滴る水滴のように、夜の深淵へと落ちていく。


 町内会で夏祭があると聞いていたので、ぶらりと足を運んでみようと思い立つ。Tシャツの上に薄手のパーカーを羽織り、目元だけの化粧のままスニーカーをつっかけて家を出た。


 徒歩数分で祭の会場に到着。


 特に目的があったわけではないが、焼き鳥のかおりに誘われてネギマとぼんじりと鶏皮を購入する。焼き鳥と言ったらビールでしょ、と氷水に浸した缶ビールを買って、公民館の縁側に座った。


 公民館の駐車場で開かれている、このこじんまりとした夏祭りは、地区の消防団が主体となって、代を引き継ぎながら今日まで繰り返されてきた。

 県外の大学に行ってしまった慎三郎はそのバトンを掴むことはなかったが、地元に残ったクラスメイトたちがそのバトンを次に繋げてくれている。

 先ほどビールを買った屋台で屈託のない笑顔を見せていた青年も、きっと私たちの代からバトンを引き継いだ一人なのだろう。


 公民館の縁側は狭い。


 子供の頃、慎三郎と一緒にかき氷を食べた時、この縁側はもっと広かったような感覚を覚える。

 祭の夜に友人と二人でかき氷を食べるという特別なイベントの高揚感によって、私の中で誇張され記憶されているのかもしれない。


 目の前を、小学生くらいの女の子と男の子が、かき氷を片手に通り過ぎていった。着慣れない浴衣と草履に足元がおぼつかない女の子を尻目に、男の子はどんどん先に歩こうとする。

「まってよー」という女の子の声で初めて、男の子は自分が先行している事に気づいたようだ。立ち止まり振り返ると「おそいよ、何やってんだよ」と悪態をつく。


「待ってって、歩きづらいの!」


「そんな格好してくるからだろ」


「だってさ」


 女の子が、動きづらいのを分かっていながら、それでもこの可愛らしい浴衣を着てきた意味に、男の子もいつか気付くだろう。


 齢30を超えてもその辺に気づくことができなさそうな、鈍感な大人を私は知っているがね、なんて事を考え、ひとりくすくすと笑う。

 少しアルコールが回ってきたかもしれない。


 慎三郎と一緒に来たかったな、と思った。


 もし慎三郎と一緒だったら、私は年甲斐もなく、クローゼットの奥底に押し込んでいた浴衣を引っ張り出しているのだろうか。


 そんな自分を想像すると、またおかしくなった。


 スマホを取り出し、慎三郎にLINEを送る。


『次のキャンプ、いつ行く?』


 数分後、返信がある。


『来月にしよう』


『今、どこいるの?』


『隣県の、山奥』


『え、温泉旅行?』


『ううん、ソロキャン』


『マジで?』


「マジで‥‥?」書いた言葉をそのまま呟く。

 慎三郎は変わったと思うけど、まさかここまでの行動力を身に付けていた事に驚いた。いつも自室のベッドに腰掛け、ぼーっとパソコンを弄っていた姿からは想像ができない。

 自分を誘ってもらえなかったのは少し寂しかったが、きっとあいつなりに何か考えがあっての行動なのは察しがつく。伊達に小さい頃から知っている仲じゃない。


『なんか、色々考えたくて』


 慎三郎の返信を見て、少し逡巡の後、こう返す。


『私だって、今色々考えてるよ』そして続けざまに『今、実家の夏祭りに来てる』と送る。


『夏祭り、懐かしいな。来年、一緒にいこうよ』


 そんな慎三郎からの提案に、おそらく自分の顔は不細工な程ニヤついているんだろうな、そんな事を思った。




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