キャンプの朝はグラデーションだ。
遮光カーテンを閉め切った自室での夜明けは、時計の針が指し示す数字のみで表現される。照明のスイッチを付けるように夜と朝が一瞬で入れ替わっていたとしても、その事実に気づく事は出来ない。
それに対しキャンプの朝は、グラデーションのように連続的に夜が朝へと変化していく。
夏の朝日を透過し、徐々に明るなっていくテント。夜の虫の鳴き声が、小鳥の囀りに変わり、蝉の声へと変化していく。一日1日が連続した時間の流れの上に成り立っているのだと実感する。
そして僕は、自分という存在もまた連続する一つの命なんだと実感するのだ。
そんなキャンプの朝。
子供の頃は寝る事で今日の自分が死んでしまうような気がして、怖くて寝れなかったんだよなぁ、なんて事を思い出す。ひとしきり思い出に浸ったところで「さあ今日も生きるか」と気合を入れて、僕はテントから這い出す。
水を汲みに炊事場に向かうと、隣接する公衆トイレから出てきた昨日の少女と鉢合わせした。
「お、おはよう」
「おはようございます‥‥」
宵闇に包まれた状態とは異なり、朝日に照らされた僕の姿はおそらくだらしないおっさんそのままなんだろうな、と少し恥ずかしい気持ちになる。
反して、短めの髪に少し寝癖がついたこの少女は、朝日に照らされて輝いて見える。『これが若さか‥‥』なんてクワトロ大尉の台詞を心の中で呟いた。
「ちゃんと、寝れた?」
「一応は、寝れました。でも早く起きちゃったんで、少し寝不足気味です‥‥」
「だよね」キャンプの朝は早いから、と僕は言う。
昨日の夜は、特に会話が弾む訳でもなく終始無言で僕の作ったもつ煮込みを食べ、僕が勧めたステーキ肉を「すみません、すみません」と言いながら一気に頬張り、夜食に食べようと思っていたカップのきつねうどんを「え、いいんですか?」と遠慮しながら汁まで飲み干していた。
どんだけ腹が減ってるんだよとびっくりしたが、まあ若いから当然かと思い直す。それでなくてもキャンプの飯は美味くてついつい食べ過ぎてしまうのだから、さもありなん。
少女はこの野営場で数日泊まるつもりでいるらしい。両親には朝昼晩と連絡をする事を条件に連泊を許可してもらっているらしく、説得が大変だったと漏らしていた。確かに、多分高校生くらいであろうこの年頃の少女が、キャンプで無防備に寝泊まりするのは色々と危険だろう。
そして自分もまた、側から見たら危険因子の一つに見えるんだろうなと思い、名前や年齢などのプライベートな事は敢えて聞かないでおいた。
「あの、お兄さんは、今日はどうするんですか?」
このまま会話を続けていいものか迷っていると、少女の方から話題を振ってきた。
「えっと、今日はのんびりしようと思うんだけど、昼頃に近くの温泉に行って、付近のひまわり畑を散策して、スーパーで買い出しして帰ってくる予定かな」
「温泉にひまわり畑、いいですね。ここから近いんですか?」
「道を車で10分くらい登っていくとあるらしいよ」
「参考になります、ありがとうございます」
「原付でも行けると思うけど、山道だから気を付けてね」
「はい!」
少女は大きく頷いた。
それじゃ、とすれ違う時、思い出したようにこちらに向き直る。
「あ、あの、昨日のお礼に、夕食をご馳走します。スーパーで買ってきますので」
「え、いいって、昨日のも大したものじゃないし」
「そんな事なかったです! 何かお礼させてもらわないと、申し訳なくて‥‥」
気弱そうに見えて、なかなか頑固な子だ。僕は考え、一つ提案する。
「じゃあ、材料は僕が買うから、何か作ってもらおうかな。流石に材料費まで出してもらったら、僕も大人としての面目がない」
「えっと、うーん、それでよければ‥‥」
不承不承ながら、といった様子で頷く「じゃあ、買い出しご一緒します。何時ごろ買い出し行きますか?」
「え、あの、15時くらいかな」
「15時‥‥午後3時くらいですよね‥?」
「うん。じゃあ‥‥この道を下った所にあるスーパーの入り口で待ち合わせにしようか」
「はい」少女は頷き、3時、3時と小さく唱える。
「それじゃ、また後ほど」
「はい、またです‥‥」
少女は自分のテントに戻っていった。
炊事場で水を汲みながら、僕はこの交流について
色々と考えを巡らせた。お互い名前を知らないこの微弱な関係性がなんだか心地よかった。子供の頃は公園で会った名も知らない子達と、まるで友達のように遊んでいた。大人になってそういう関係はほとんどなくなったように思う。同じコミュニティだったり、役職だったり、契約関係だったり、互いの情報を開示した上で、それに応じた付き合いをしていたる。
僕はあの少女の名前も、年齢も、住んでいる場所もわからない。
ただ同じ遊具で遊んでいるだけの、赤の他人。
だけど遊具に気持ちが集中しているこの一瞬だけは、同じ方向を向いている仲間だ。
「まだ、こういう関係を作れるんだな」
なんだか忘れていたものに気付かされたような気持ちになった。
△
15時の待ち合わせになんとか間に合った。
朝食を食べた後、念のためキャンプ道具をテントの中にしまうと、貴重品だけ持って車に乗り込んだ。
休日ということもあり、ひまわり畑は長蛇の列が出来ていて辟易した。せっかく来たんだから、と列に並んでみるが、ひまわりを見ているのか、前に並ぶ人の後頭部を見ているのかよくわからなくなってきて、途中で離脱した。
近くの温泉施設で汗を流し、新しいTシャツに着替える。施設の隅にコインランドリーがあったので、今まで着ていた服を突っみ施設内を散策。洗濯が終わった服を車の中に吊るし、施設の食事処で昼食を取った。キャンプ中は肉中心の食事がどうしても多くなってしまうので、唯一あった魚系のアジフライ定食を頼み、ソースをたっぷりかけて食べた。
食事処に漫画が置かれていたので、それを読みながらのんびしりていると、気づけば14時を少しすぎていた。
まずい! と急いで車に乗り込み、道を下る。
それでなんとか、15時には間に合った。
スーパーの入り口付近、自販機側のベンチに腰掛けていた少女がこちらに気付いて小さく手を振る。
僕も軽く頭を下げる。
なんだか気恥ずかしい。髭は風呂で剃ってきたから、おっさん感は若干薄れていると信じたい。
「えっと‥何‥たい‥か‥‥?」
スーパーの中では、喧騒にかき消されて少女が何を言っているのかいまいちわからない。何回か聞き返し、何を食べたいか尋ねている事がわかった。余計な音が何もない山の中なら何とか会話の体をなしているが、ここでは完全にコミュニケーション不能だ。
「特にないけど、時間あるし、何か煮込もうか? ビーフシチューとか、僕は好きだな」
この夏場にビーフシチューか、と一瞬思ったが、少女が目を輝かせて頷いているのでそれでいいかと思う。
二人とも無言で、材料をカートに積み込む。少女が食べるんじゃないかと思い、お菓子系やカップ麺もいくつかカゴに放り込んだ。
会計を済ませ、お金を渡そうとする少女の申し出を固辞し、ならアイスでも買って食べよう、と17アイスの自販機でチョコミントを買ってもらった。
ベンチに座り、無言でアイスを食べる。
何だろう、この不思議な関係は。
側から見たらパパ活とか、そういうのに思われてしまうのだろうか。
親子、いやそこまで歳が離れているように思われたくない。もう三十路に突入してはいるが、髪だって黒々しているし、皺もないと思う。歳の離れた兄妹とか、多分そんな感じだろう。
「あの」無言の空気が耐えられなかったのか、少女の方から口を開く「ヒロシさんは、いつからキャンプをしているんですか」
「えーっと」答えようとして違和感に気づく「え、ヒロシ?」
「あ」
少女の表情が一瞬固まり、どんどん赤くなっていく。恥ずかしさで目が潤み、それを隠すようにアイスを咥えたまま俯くと、ぼそぼそと何かを呟いている。
「すみません、その、間違えました、あの、なんだか、一人でキャンプしてて、あの、芸人の、ヒロシさんみたいだなって、そう思って、あの、だって名前知らないから、心の中でそう呼んでたら、つい間違えて、その、すみません‥‥」
「いや、いいけどね」あまりの狼狽ぶりにこっちが申し訳なくなる「でも、僕、金髪じゃないよ」
「見た目じゃなくて、雰囲気というか‥‥」
「そうかな?」喜んでいいのか、そうじゃないのか、よくわからない。
真夏の太陽の仕業か、赤く火照った頬の仕業か、少女の手にする17アイスはみるみる溶けていった。