わたしはクラスメイトから『不幸少女』と呼ばれている。
特別不幸な生い立ちなわけでも、何か人生を狂わせるような失敗をおかしてしまったわけでも、ましてやおみくじで大凶を引いたわけでもない。
いつも自信なさげな表情を浮かべて、怯えるような目でクラスメイトを見ていたら、その捨てられた子犬みたいな哀愁漂う様子からいつの間にかそう呼ばれるようになっていた。
そう呼ばれる事に対して、憤りがあったわけでは全然ない。
むしろ『不幸キャラ』という肩書きに甘んじることで、学校という閉鎖空間である種の役割を与えられ、自分の立ち位置を確立できたのだからむしろ幸福と言っていい。
とはいえ、一度与えられた役割、有り体に言えば『いじられキャラ』というポジションを維持する事にもある程度の努力がいる。いじられキャラが嫌だとかそういうのではなく、ポジションを確立することで必然的に発生する、人との関わりが煩わしかった。
ふくれて、おどけて、愛想笑い。
初めて不幸少女と呼ばれた時、わたしは不幸ではなかったと思う。
でも、人との関わりによって生じ、日々蓄積されるこのストレスが、わたしを徐々に『不幸少女』にしていった。
そんなわたしには、気になる芸人さんがいた。
自らの悲惨な出来事を、哀愁漂う音楽にのせて面白おかしく話す芸風は、まさにクラスにおける自分そのものなのではないかと、勝手な親近感を持っていた。
この人は、自分と同じ煩わしさを感じているんじゃないか? もしそうなら、この人はどうやってそのストレスを発散しているのだろうか。
その疑問はすぐに解けた。
この人には「キャンプ」があった。
人の社会で生きている以上、人との関わりを完全に無くすことは出来ないと思う。本心を隠して愛想笑いすることは確かに大事な事だし、作り物の笑顔には、作り物の笑顔でしか返してもらえないことも当然知っている。
でも自然は違う。
わたしが笑ってようが、泣いてようが、同じように雨が降り、日が差す。
今始めるしかないと思った。
今始めないと、わたしはストレスに潰されてしまう。
コツコツ貯めていたバイト代を叩いて、キャンプ道具一式を買い込み、通学用のスクーターの荷台に縛りつけた。
夏休み、わたしはこの煩わしい人間社会から逃げ出すんだ。
△
聞いたことのない謎の生き物の鳴き声がする。
フクロウだろうか、野犬だろうか、それとも自分の知識の中には欠片も存在しないような、未知の生物だろうか。
僕ーー
謎の鳴き声は、おそらくフクロウなのだろうと勝手に結論づけてはみたものの、真実は文字通り闇の中だ。
あの原付スクーターに乗った女の子以降、この野営場には誰も立ち入っていない。予想以上の錆れっぷりにいささか困惑気味ではあるが、トイレの水もちゃんと流れた事だし、野営する上で当面の問題はない。
野営場の横を走る道路には辛うじて街灯が立っているものの、場内はトイレの常夜灯以外照明がない。ランタンがなければ、星の光と会話ができるくらいの真っ暗闇だ。
完全に人里から離れてしまったなとしみじみ思う。
心細さはないが、なんだか酒のまわりが遅いような気がする。いつも隣で漫画を読んでいる幼馴染がいない事で、妙に冷めた目で現状を俯瞰している自分に気づく。
自然の静けさの中にいると、良くも悪くも、自分の内面と真摯に向き合うことになる。
真顔でモツを煮込みながら、真顔でビールを飲む。
「あ‥‥の‥‥」
何か声が聞こえたような気がした。
でもこの暗闇の中から人の声が聞こえてくるはずがない。風の音か、謎の生き物の鳴き声だろう。
「あ‥‥の‥‥すみま‥‥せん‥‥」
また声が聞こえた気がした。
女性の声のようだった。もしかして自分は
冷静な自分を自覚しているつもりだったけれど、もしかしたら何処か普通じゃない状態なのかも知れない。
もしくは何か霊的なものか。
考えて、背筋に冷たいものが走る。
「す、す、すみません!」
「うわあ!」
突然の声。
幽霊の存在を想像し神経過敏になっていた僕は思わず叫び声をあげる。
「きゃ!」
また小さな声がした。
恐る恐る声のした方を見ると小さな人影が立っているのに気付く。人影はゆっくりと近づき、ランタンの灯りが朧げだった輪郭を縁取る。暖色の明かりに照らされながら、怯えた様子の女の子が上目遣いで僕を見ていた。
夜の野営場になぜこんな若い子がいるんだ、そんな疑問が一瞬湧いたが、昼間にスクーターを押してあげた少女と、目の前の少女が重なる。
「あの、すみません‥‥」
改めてと言った様子で頭を下げる少女。
昼間会った時も何というか弱々しい印象だったが、夜の闇に紛れると余計に小さく細く弱々しく見える。声も無理やり絞り出しているようだが、それでいてか細くて聞き取りづらい。
「は、はい?」
声の主が幻聴や幽霊ではなく、生身の人間であることはわかった。しかしなぜこの少女は一人でモツを煮ている怪しさ満点のおっさんに声を掛けてきたのだろうか。
「つかぬ事を、お聞きします」
「えっと、はい」
「この‥‥この鳴き声って、なんですか?」
「はい?」
「この、ゔーっ、ゔーっ、って鳴き声」
「あ、ああ」少女の声真似が滑稽で少し笑ってしまう「僕もよくわからないけど、フクロウかなんかじゃないかな?」
「あの、熊の鳴き声じゃないですよね?」
「熊は鳴かないんじゃないかな、多分」
「そっか、良かった」少女の表情がほんの少し緩む「怖い動物だったらどうしようって思って‥‥」
「ああ、なるほど。大丈夫だと思うよ」怖がらせないよう出来るだけ優しく応える。謎の生き物の声に怯えて、モツを煮ているおっさんに怯えて、じゃ可哀想だ。そんなふうに感じてしまう、保護欲を掻き立てる小動物のような少女。
「そうなんですね」
「うん」
「‥‥‥」
「‥‥‥」
疑問が解消され自分のテントに帰るものだと思っていたが、一向に動く気配がない。なんだか名残惜しそうに、僕の隣のランタンポールにたてかけられたコールマンのガスランタンを見ている。
「ここ、よく来るの?」
仮にもソロキャンプでこんな山奥の野営場にやってくるのだから、そこそこの経験がある子なのだろう。オススメのキャンプ場やキャンプ料理の情報交換などで間を持たせたかった。
「いえ、初めてなんです‥‥」
目の前に飛んている羽虫を手で払いながら、少女は答える。
「そうなんだ。普段はどこのキャンプ場に行ってるの?」
「いえ、あの、キャンプ自体初めてで‥‥」
「初めて!?」
僕は驚き、同時に合点が入った。
この少女のやけにオドオドした様子や謎の生き物の鳴き声に怯える様は、キャンプ経験の無さから来るものだったのか。それにしても、そんな状態でこんな設備も整ってないような野営場でソロキャンプを強行するなんて、僕も大概無謀だけれど、それに輪をかけて無謀だ。
少女の目は所在なさげにランタンから僕のテントに移り、僕の手元でグツグツ音を立てているもつ煮込みで止まった。
煮込みを見つめる少女。
「晩御飯、食べたの?」
「はい、さっきおにぎりを一個」
「それだけ?」
「はい‥‥荷物がいっぱいで積めなくて、すみません」何故か申し訳なさそうに言う。しかしその目は、僕の煮込みからそらさない。
「お腹空いてる?」
「‥‥はい」
「これ、食べる?」
その言葉で少女の目が見開く。
「え、いいんですか? でも、悪いですよ‥‥」そう言いながらも、口の中では既に煮込みの味が広がっているのだろうか。言葉とは裏腹に、身体は前のめりになっている。
「モツだけど、食べれる?」
「好物です!」
食い気味の返事に僕は苦笑する。
今までで一番大きな声だった。