夏の太陽を全身に受けて縦横無尽に生い茂った草花が、深く湿った緑の匂いを漂わせていた。
木陰に止めた車の横にとりあえず椅子を置いて、木々から漏れる光に目を細めてみる。下界より標高が高いため、緑で日光が遮られると涼しさすら感じられる。熱帯夜で眠寝る夜を過ごすような事態はなんとか免れられそうである。
隣県の山奥にあるこの野営場は、予約不要、料金無料で宿泊できる穴場的スポットだった。
市の施設紹介ページの端の方に小さくリンクが貼ってあるだけのため、おそらく大半の人が見落としているのだろう。キャンプシーズン真っ只中にも関わらず、宿泊者は見当たらない。
半分雑草で覆われた公衆トイレや、クモの巣が張っている炊事場がちょこっとあるだけの貧相な設備環境なのだから、恐らくリピータと呼べるキャンパーもあまりいないのだろう。管理は市という事だが、残念ながらあまり手入れは行き届いていないようだった。
でも、それがいい。
充実した炊事場や、温泉施設なんかが備わったキャンプ場も確かに魅力的だけれど、今の自分が求めているのはそんなぬるま湯ではない。
この何もない大自然の中で3泊4日自分を見つめ直す、それが今回の目的なのだ。
とはいえ、いざとなれば車で20分ほどの所にスーパーがあるし、山を車で10分ほど登ればこじんまりとした温泉施設がある事は調査済みである。
自分を見つめ直す、などと仰々しい事を目標として掲げてはいるが何の事はない、根底のところではソロキャンプをしてみたいという好奇心に突き動かされただけ。
キャンパーのバイブル的映像作品や、キャンプガチ勢芸人のYouTubeチャンネルが、僕をソロキャンプへと駆り立てたのである。
この野営場にサイトという概念はない。いい感じのスペースに車を横付けし、好きなところにテントを張ってしまって構わないと紹介ページには書かれていた。早い者勝ちではあるけれど、競合相手が皆無なため、のんびりゆったりと辺りを散策し、取り敢えず見晴らしのいい適当な場所を設営地とした。
数メートル先には小川が流れている。
渓流のせせらぎが心地よい。
テントを立てながら、一区切りの度にビールを一口のむ。この昼間のビールに罪悪感を感じていた数ヶ月前の自分が懐かしい。
良かれ悪かれ、自分の頭は完全にこっち側の人間になってしまったようだ。
数ヶ月前の僕が今の僕を目の当たりにしたら、きっと「頭のネジが数本抜け落ちていらっしゃる」と、冷ややかな視線を向けるに違いない。
僕のテントは雨よけや遮光を目的とする外側のフライシートと、通気性に優れた内側のインナーテントの2住構造になっている。通常はフライシートの中にインナーテントを吊り下げて完成となるが、取り敢えず外側のフライシートだけ立てて、出入り口を大きく広げる。日除けとして屋根は欲しいのだが、一人のキャンプでタープを建てるのも面倒なので、昼間はこのフライシートがタープ替わりだ。寝るときに改めてインナーテントを張れば良い。
今日は自分一人しかいない。
どう工夫して、どう失敗しようが、恩恵も厄難も全て自分が被ればいい。
そう考えると、好奇心と不安で落ち着かなくなってくる。
何かやらなければ、そう早る気持ちを無理やり抑え込んで、取り敢えずコーヒーを淹れてみる。
屋外用ガスコンロのタフまるでお湯を沸かしつつ、シェラカップにペーパーフィルターをのせて適当にコーヒー豆を入れる。フィルターも豆も穂乃果がキャンプ道具ボックスに詰め込んでいたものを借用させてもらった。ケトルの蓋が揺れ出したので、コーヒー豆にお湯を注ぎ入れる。温度がどうとか、最初は少しお湯を淹れて蒸らすだとか、穂乃果は色々と講釈を垂れながらコーヒーを入れていたが、僕の脳内ペーパーフィルターはそれら知識を根こそぎ濾し取ってしまったらしい。
適当に入れたコーヒーは、出涸らしで淹れたみたいになんだか安っぽい味がした。
お湯は大量に沸かしたので、余ったお湯をカップヌードルに注ぎ遅めの昼食とする。設営の疲れで空腹ではあったが、1番の楽しみである夕食に支障が出ると良くないので、シーフードヌードル1つで我慢しよう。
キャンプと言ったら何故かシーフードヌードルが食べたくなる。棘のない柔らかな香りは、不純物のない自然の空気との親和性が高いのだろう。そういえば穂乃果も、最近はこってりカレーよりあっさりシーフードが好きと言っていたような気がする。この嗜好は年齢的なものもあるかもしれない。
若々しい高校生とかだったら、やはりカレーヌードルが食べたくなるのだろうか。
空腹も少し落ちつついたので、椅子にもたれて本を読むことにした。来る前に図書館で借りてきた「アウトドア大百科」みたいな本と、アウトドア付きの作者が書いたと思われるキャンプエッセイみたいな本をパラパラと捲る。
穂乃果はキャンプに来ると決まって本を読んでいる。マンガの時もあれば、流行作家の小説の時もある。しかし、それらのジャンルが最近の女性の読むものと微妙にずれているような気もするが、どうなのだろう。この前のホタルキャンプの時は「ボボボーボ・ボーボボ」を読みながらケラケラと笑っていた。今思うと、あれは頭の中に充満する色々な悩みを、不条理ギャグで吹き飛ばそうという試みだったのかもしれない。
なんだか、穂乃果の事ばかり考えてしまう。
穂乃果に何も告げずに、ソロキャンプを決行したというのに、結局のところ脳内の穂乃果と二人キャンプになっている事が情けない。
鬱々と考えていると、徐々に太陽が傾いてきた。テントの屋根を避けるように、暖色の光が横から射し込んでくる。
そろそろ、火でも起こすか。
椅子から立ち上がったところで、エンジン音が聞こえてきた。
市の人が除草でもしてくれているのかな? ありがたいな、と思ったが、どうも様子がおかしい。草刈り機のエンジン音はもっと甲高く平坦に響くと思うのだが、このエンジン音は波のように強弱を繰り返している。なんというか、車のエンジンを空吹かししているみたいな印象だ。
放っておいても良かったのだが、どうせ暇なのだ。時間だけは腐るほどある。普段の生活でもちょっとした好奇心が生まれる瞬間は多々あるが、時間の有限性が大きなハードルとなって、好奇心の追求よりも好奇心を打ち消す方向で行動してしまう。こんな時ぐらいは、自分の感情に素直に従ってみよう。
音のする方向へ歩いていく。
砂利の敷かれた道から、草が生い茂る土壌に数メートル入ったところで、スクーターが一台立ち往生していた。勢いで乗り入れて柔らかい土に入り込み、動けなくなってしまったのだろうか。
何やってんだろう。
仕方ない、ちょっと手伝ってやるか。
「あのー、大丈夫ですか?」
驚いた様子でスクーターの持ち主はこちらを見る。
女性だ。
しかもかなり若い。
高校生か、いってても大学生くらいだろう。
無地のTシャツにジーンズ、化粧っ気のない顔とショートヘアーが、実年齢以上に幼く見せているのかもしれない。
通常の僕であれば『あ、女の人だ、キモいおっさんが声かけてきたって通報されるかもしれないから、見なかったふりしとこ』と踵を返してしまうかもしれないが、同じキャンパーで仲間と考えればそんな心の防壁もベニヤ板程度に柔くなる。
「スタックしたんですか」
「えと、はい、なんか動かなくて」
「良かったら、ちょっと手伝います。こっちは土が柔らかそうなんで、2輪だったらあっち側に行ったほうがいいかもしれないですよ」
「は、はい」
男の力でスクーターを押すと、タイヤは容易く溝から解放された。
不安で塗りつぶされていた女性の顔が、一瞬で安堵に塗り替えられる。
「あ、ありがとうございます!」
女性は何度も頭を下げて、僕が伝えた方向へと走っていった。
あんな若い子もソロキャンプするんだな。
りんちゃんみたいだな、と僕は思った。
しばらくすると、少し離れたところに小さなテントが一つ設営された。そのあたりからカレーヌードルの匂いが漂ってきて、僕はああやっぱりと頷くのだった。