焚き火の上に網を敷き、水を入れたケトルを置く。小さく割った薪をくべると火はすぐに大きくなり、揺れながらケトルの底を撫でる。注ぎ口から湯気が上がり始め、徐々にその勢いが強くなる。
海底に沈んでいくような気持ちで、椅子の背もたれに体重を預けた。
先程まで存在すら忘れていた波の音と、虫の鳴き声と、照度を落としたランタンにぶつかる虫の羽音と、ドリップバッグに注がれるお湯の音が重なる。
隣のサイトの若者達は、テントの中に場所を移したようだった。周りに気を使っているのか、先程までの喧騒は鳴りを潜め、偶に話し声が聞こえてくる程度に止まっている。
何か考えたい事があるような気がするのに、考えられない。感情のスイッチが切られたように、呆然とコーヒーを淹れる穂乃果の姿を見ている。
なんだか、無駄に疲れた。
そんな僕に目の前にコーヒーカップが置かれる。穂乃果は自分のカップに口をつけながら、僕と向かい合う席に腰を下ろした。
僕はコーヒーに口をつけた。
濃いめに淹れた、目の覚めるような苦さのコーヒーだった。今僕が飲みたい味を淹れてくれる、穂乃果の気遣いがありがたい。
「まったく、無茶するなよ」
囁くような、風の音と紛うような声で穂乃果が言う。
「ごめん」
また謝ってしまう。
しかし、どこか煮え切らない感情が胸の内で燻っている。
「素直な子達でよかったけど。最近の若者はおっかない子も多いんだから」
「でも‥‥」ボロボロの布切れのような言葉が、喉の奥から引き出される「穂乃果が楽しみにしていたキャンプを、台無しにされたくなかったんだよ」
穂乃果はコーヒーカップを口に運びながら、カップの向こう側でわらったような気がした。
「いや、それはありがたいけど。でもその結果禍根が深まったら元も子もないじゃん。なんていうか、
『慎三郎に、そういうの求めてないから』
その言葉が、僕の心を深く抉った。
なんの気無しに口をついて出た言葉なのだろう。
でも、だからこそ穂乃果の内面が装飾なく言語化されたと感じた。
穂乃果が好きだった元彼さん。
嬉しそうに語る彼の武勇伝に触発されてとった僕の行動は、自身の情けない姿を晒すだけで終わった。
そして『そういうの求めていない』の一言。
スイッチの切れていた感情の回路に再び電気が通う。ヒューズが飛びそうなほどに目まぐるしく駆け巡るその流れを、抑制するブレーカーはない。
僕の理性は、その役割を放棄している。
「じゃあ、どういうのを求めてるんだよ。困っている穂乃果を尻目に、びくびく日本酒を飲んでいるのが僕らしいってうのか」
思いがけない反応だったのだろう。穂乃果はコーヒーカップを口に運ぶ仕草のまま固まった。
「いや、そうじゃなくて」
「そうじゃなくないだろ。穂乃果にとって僕は、ただ保護してもらうだけの愛玩動物かなんかなのかよ。一緒にキャンプに連れてけば尻尾振って喜ぶ、ペットか何かかよーー」
昔、元彼さんが立っていた位置。
そこに僕が立つことは出来ないのかよ。
その本心は口に出せなかった。
「落ち着いてよ、そういう事を言ってるんじゃないし」
「僕は落ち着いてるよ」
この胸のわだかまりをここで吐き出すのはおかしいとわかっている。でも一度溢れた言葉は止める事が出来なかった。
吐き出してしまった言葉が穂乃果を困らせるものだとはわかっている。
濡れ雑巾で辺り一面に散らばった言葉の吐瀉物を拭き取ろうとしても、少し薄まってさらに広がるだけだ。
「ほんとに、そういうことを言いたかったわけじゃないのに」
穂乃果の声のトーンが変わる。張った絹糸を指先で振るわせるような声だ。僕はその変化に気付いて穂乃果を見る。穂乃果の目が、雫を湛えているように見えた。
しかしそれは、ほんの一瞬。
直ぐにいつもの穂乃果の仮面を被る。
「慎三郎は、なんもわかってないよ。だからモテないんだよ、君は」
反論しようと口を開きかけるが、穂乃果が立ち上がり僕に背を向けたため思い止まる。
穂乃果はふらふらとテントの中に入り、自分のバッグの中から何かを取り出して戻ってきた。
テーブルにそれを置く。
この前みたキャンパーのバイブル的映像作品で、なでしこちゃんが購入していたキャンドルランタンだった。
無言でそれを組み立て、火を灯す。
ほんの小さな灯がメインランタンの灯りの中に溶け込む。
穂乃果は再び立ち上がると、メインランタンを消した。途端に周囲が闇に包まれる。虫の声と波の音が、ほんの少し大きくなったような気がした。
テーブルのキャンドルランタンが半径数十センチの世界を照らす。
弱々しい灯だ。
でも、荒れて擦り減った心を癒してくれるような、優しい灯だ。
さっきまでの苛立ちが、徐々に薄れて行くように感じた。
「このランタン、弱々しいでしょ」
「うん」
「ランタンなのにさ、全然明るくない。周りを明るく照らしてくれるわけじゃない」
「そうだね」
「でもね、今の私には、この子が必要なんだよ」
「うん」
「私には、この子が必要だから、この子を選んだんだよ」
「うん」
「私が、何を言いたいか、わかる?」
「‥‥わからない」
小さく響くガスの音の背後で、穂乃果のため息が聞こえた気がした。
「じゃあ、しばらくそれ見ながら考えてなさい。私もう寝る。きょうは疲れた。誰かさんのおかげで無駄に疲れた」
おやすみ、ちゃんとランタン消してきてね。
そう言い残して、穂乃果はテントの中に消えた。
僕は呆然としたまま、小さく揺れる火を見つめていたが、思い立って立ち上がり、タープの外に出た。
メインランタンの灯りで気づかなかったが、今日の夜空は澄み渡り、満月が真上からタープの屋根を照らしていた。
星に手を伸ばせば、浜辺の砂浜のように掬う事が出来そうだ。遠くで聞こえる波の音は、海から聞こえてくるのか、それともこの夜空から聞こえてくるのか、だんだんわからなくなってくる。
穂乃果に考えろと言われたけれど、僕だって今日は疲れてしまった。穂乃果が置いていったキャンドルランタンを、空っぽの頭で眺める。
しかし思考を放棄したい脳とは裏腹に、擦れたカセットテープみたいに今日の場面場面が次々と浮かんでくる。
もっと強くならなくちゃいけないと思った。
穂乃果に対しての感情の輪郭がはっきりしてくるにつれ、その細部に目を凝らしては一喜一憂している自分にほとほと疲れた。
穂乃果という存在に依存し、心を乱され、それで当の穂乃果まで傷つけている自分が嫌になった。
もっと、自分を見つめ直さなければ。
見つめ直した上で、穂乃果と笑って話せる自分にならなければ。
キャンドルランタンの揺れる火を見ながら、僕は決意を固めた。
△
海辺キャンプの翌週。
僕は初めて会社で有給を取った。
無理やり作った4日間の連休を使って、僕は穂乃果に何も告げず、一人でキャンプに向かった。
場所は某県某所の野営場。
今までの整備されたキャンプ場とは異なり、山奥で人もほとんど来ない、寂れたキャンプ地。
自ら更なる不自由に身を委ねることで、精神的な自由を得ることが出来るように感じたからだ。
この1週間、某お笑い芸人のYouTube動画を見まくって勉強したから、大丈夫のはず。
多分。
こうして、僕の付け焼き刃なソロキャンプの幕が上がった。
そして僕はここで、夏休みを切っ掛けにソロキャンプを決行していたとある女の子と知り合うことになる。