一ヶ月ほど前。
初夏の雨がしんしんと降り続ける夜、蛍の消えたキャンプ場で、僕と
机の奥底にしまい込んでいた古い落書き帳を見せ合うように。
思い出を削って創り上げた、透明で脆く繊細な彫刻に、そっとお互いの手を這わすように。
僕にとってその時間は、とても新鮮で、充実したものだった。
しかし同時に、透明な彫刻の細く括れた一部分を、ヒビが入るほどキツく締め付けられているような、鈍い痛みを感じていた。
「元彼って、どんな人だったんだ?」
そんな僕の問いに、穂乃果は照れ笑いで答える。
「どんなって‥‥なんていうかな、よく言えば誰とでも仲良くなれるというか、悪く言えば人に付け入るのが上手いというか」穂乃果は焚き火から舞い上がる火の粉を見るように、視線を虚空に漂わせた「完全なる陽キャ、って感じ」
きっとそれは、僕とは真逆の人間性だ。
「大学の頃さ、こんなことがあって」視線を僕の方に戻し、穂乃果は続ける「大学時代にさ、元彼含む男女数人でBBQした事が何回かあったんだよね。あれって確かまだ大学1年の頃だったかな。河原でやってたらナンパ? みたいな男達に声掛けられた事あって。ほら、その頃の私らってまだ純情な乙女だったから、どうすればいいか困っちゃってさ。断りたいのに、どう断ればいいかわかんなくて」
そんな事があったんだ。
話を聞くにつれて、自分の知らない穂乃果が顔を出す。それは嬉しい事なのか、寂しい事なのか。
「私らが困ってたら、アイツが急に日本酒片手に割り込んできて『この酒めちゃくちゃいいやつなんですよ! よかったらちょっと味見してみません?』って。いや、最初はその男らもぽかーん、だったんだけどさ、アイツが勧めるもんだから、なんだかんだで日本酒飲み始めて、そのままアイツとどこかへ消えてった‥‥」
「へ?」
「うん、意味わかんないと思うけど、ナンパ男達とすっかり意気投合して、みんなで飲みに行っちゃった」
「なんというか、コミュ力オバケだね‥‥」
「後から聞いたら、私らがナンパされて困ってたから、何とかしなきゃってやった苦肉の策らしいけど、度胸があるというか、バカというか‥‥まぁそういう奴だよ」
呆れたように言う穂乃果だったが、その表情には信頼を寄せる者へ向ける尊敬の念が見え隠れしていた。
「そんなところが、好きだったんだ?」
僕の直接的な問いかけで穂乃果の視線が泳ぐ。しかし意を決したように僕の目を見た後、少し俯きながら「たぶん、ね」と答えた。
また何処かで、ヒビの入る音がした。
△
21時を過ぎ、消灯時間まであと小一時間と迫っていたが、隣のサイトの騒ぎは収まる気配すら見せなかった。
管理されたキャンプ場では消灯時間が決まっているのがほとんどだ。消灯時間が過ぎた場合は、極力大声での会話は控え、照明も最小限に絞る必要がある。ただ通常はマナーの範疇で、日が落ちてからは大声を出さないように互いに気を使うものだ。疲れて眠りたい人や、小さな子供づれの家族がいるかもしれない。
日常から解放され自由を謳歌するためのアウトドアとは言え、各々の自由は、お互いの自由を尊重し合う配慮の上で成り立っている。
理性を捨てて大声で騒ぐのは、居酒屋の喧騒の中でも出来る。敢えて「静」を楽しむのも、キャンプの醍醐味だと思うのだけど。
誰かのギャグが決まったのか、再び笑い声が爆発する。
静かにマンガを読んでいた穂乃果だったが、幾度となく切断される集中力の紐を結び直す気力はもはや失せたらしい。袋に入った椎茸を火力の弱まった網の上に置き、トングの先で弄んでいる。
僕もプラモを作る気力はとうの昔に失せていた。酒の力で神経を鈍麻させておけば、突発的に発生するこの爆発音で心臓を破られる事もないのでは? そう考えてひたすらに日本酒を飲んでいる。しかしながら、一向に酔える気配はない。寧ろ感覚が研ぎ澄まされてしまっているような気さえする。
『ーーーってばか! てめーふざけんなよ!!』
『ぎゃはははは!!』
誰かの発言に、誰かがノリつっこみしたのだろうか。再び笑い声が響く。
「なんかさ」笑いの波が引いた瞬間を見計らって、穂乃果が小声で呟いた「さすがに、ちょっとね‥‥」
「だなぁ」僕も頷く。
夕方、海を見ながら、穂乃果は「キャンプを楽しみにしている」と言っていた。
ピンと張り詰めた綱の上を渡るような日常。緊張の連続で蓄積されたストレスを発散するため、穂乃果はこうしてキャンプに来ている。火を見て癒されるべきキャンプの夜、それをこんな形で台無しにされるのは可哀想だ。
昼間はあんなに聞こえていた波の音も、今は全く聞こえない。
「よし」僕は立ち上がる「ちょっと注意してくる」
「え、いいよ」椎茸を見つめていた穂乃果が顔を上げる「湿らせたティッシュとかで耳栓作ってさ、今日はもう寝ちゃお?」
「いや、せっかくのキャンプなのに、そんなのおかしいよ」
穂乃果も本当はそう思っているだろ? そう無言で問いかけるが、戸惑う穂乃果は首を振る。
前回のキャンプで聞いた、元彼に関するエピソードが頭をよぎった。困っていた穂乃果を、機転と勇気で果敢に救った元彼さん。
今度は僕が、男を見せる場面なんじゃないのか?
「やめときなよ。なんかガラの悪そうな人達だよ」
「大丈夫だよ。ちょっと静かにしてって、注意するだけなんだから」
穂乃果の静止を振り切って、僕はサイトを仕切る生垣から顔を出す。
「ちょっとすみません!」
馬鹿騒ぎしていた男女が一斉にこちらを見た。
楽しい会話を中断された事に対し、苛立ってそうな様子だ。
男三人が立ち上がり、僕の側まで歩いてくる。煌々と照らすランタンの明かりをバックに、鋭い眼光で僕を睨んでいる。
背丈は僕とさひど変わらない。
でもその横暴そうな立ち振る舞いは、実際のサイズ以上に自分を大きく見せる事に成功している。きっと他人を威嚇し、屈服させる術を日々の生活の中で学んできたのだろう。
それに対し僕は、相手を威嚇するような態度などとった事がない。それどころか、いざこざがあれば相手に平伏する事でことを納めてきた節さえある。
生物としての階級が違う。
僕は草食動物、そして相手は肉食動物だ。
「なんすか?」
男の一人が、舌打ちの後にそう呟く。低いが、よく通る声だった。疑問の体をとってるが、明らかに僕を否定する響きだ。
「いや、えっと」
声が出ない。
もし彼らの行動を咎めるような発言をしたとして、次の彼らの行動が読めない。胸ぐらを掴まれるかもしれないし、殴られるかもしれない。
そこまでしないだろ?
いや、それは草食動物の世界での価値基準だ。僕は今、別の階級の生き物と対峙している。しかもこの生物は、酒の力でわずかな理性すら放棄している。
彷徨う視線が男三人の背後にいる女性陣を捉えた。女性達もまた、僕という招かれざる訪問者の存在を訝しみ、排除したいと思っている。
僕は気付く。
この男三人は、背後の女性達の前で自分の力を誇示したいのだ。楽しい時間に水をさした1匹の草食動物を打ち負かすことで、群れの守護者である自分達の力を見せつけたいのだ。
だとしたら、僕の発言が正論であれ何であれ従うはずはない。
むすろそれを力強く跳ね除ける事で、周りからの賞賛を得られるシチュエーションなのだから。
「なんなんすか?」
男の一人がもう一度問う。
僕の頭の中を様々な言葉が駆け巡る。できるだけ角が立たず、相手の面目を保ちながら、この場を切り抜ける言葉を選ぼうとする。そして口をついて出た言葉は、余りに陳腐だった。
「すみません、何でもないです」
言って、絶望感が込み上げてきた。
僕は何のために彼らに声をかけたんだ?
穂乃果が楽しみにしていたキャンプを守ためじゃなかったのか?
それなのに、その気持ちも、気持ちに動かされて出た行動も、全が無に帰すような発言が意識の外側から溢れ出た。
そんな自分の情けなさに、強張って握りしめていた右手が震えた。
「あのーすみません」
予期せぬ方向から声が掛かる。
声の方を見ると、懐中電灯を持ったおじさんが困った顔で僕らを見ていた。受付のロビーで見た顔だから、おそらくここの管理人さんだ。
「もう消灯時間ですので、声のトーンを押さえてもらってもよろしいですか? ランタンの明かりももう少し落として‥‥」
僕を睨みつけていた男達の矛先がそちらに向く。
しかし「はーい! わかりましたー! しずかにしまーす!」女性陣が管理人さんの言に従ったことで、男達の臨戦態勢が解かれる。
「‥‥っろよ」
何か呟いて、男三人はテーブルに戻っていった。
緊張感から解放された僕は、感覚が希薄な両足を地面から引き離し、後ろを振り返る。
僕のすぐ後ろで、穂乃果が震えていた。
「よかった。
穂乃果のためを思ってやった行動のはずなのに、結果として穂乃果を怖がらせ、心配させていたことに気付く。
何をやってんだ、僕は。
「ごめん」
なんだか謝ってばかりだな、ふとそんな事を思った。