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第17話:3.5回目 穂乃果のデイキャンプ②

 PCのデスクトップに貼り付けたメモアプリには、やらなければならない仕事が箇条書きで羅列されている。

 それらを一つ一つ消し込んでいくことに快感を感じる事もあるが、今は終わるあてもなく積み重なっていく残務に溜息すら出ない。


 今日の同窓会、断りの電話を入れておいて良かった、と私ーー佐々木ささき穂乃果ほのかは思った。


 多忙な生活の中で、人間味が薄れていく事を実感する時がある。寝て、起きて、食べて、仕事する。この繰り返しが生活の全てなら、そんな私は果たして人間と言えるのだろうか。

 誰が悪いわけではない。「やらなくてはならない事」の裾野を「やった方がいい事」まで広げたことで、時間と引き換えに社内の評価と顧客からの感謝を得る事ができた。それは自分自身の達成感の為に、自分自身選んできた結果だ。


 しかし、辛い。


 家に帰って、誰もいない部屋で、残り少ない一日の一分一秒を無駄にしないように、焦燥感に追われながら家事をしている時に、なんだか涙が溢れそうになる。


 大学時代から住んでいるこのアパートは、物と、埃と、様々な思い出が積み重なっている。

 それらの中に逃避したいと思う事が、最近は多くなった。


 クローゼットのカラーボックスの中に、返し忘れた男物のTシャツが眠っている。

 私の大学時代の思い出。

 ほぼ全ての時間をともに過ごしてきた日々の結晶が、綺麗に畳まれて仕舞われている。 


 たまに、本当にたまにだけれど、無性に彼の声が聞きたくなる。


 自分から終わらせた優しい時間に、再び自分から縋ろうとする、その浅ましさに自己嫌悪に陥りながらも、スマホを握りしめる夜がある。


 あの同窓会の夜も、そんな気分に陥りそうな予感があったーー



   △



 キャンプ場の空を、ひぐらしの声が覆い尽くしていた。


 日はわずかに傾き、並んだ二つの影がゆっくりと伸びていく。ときに厚い雲が日を遮ると、うなじにほんの少しだけ涼しさが戻ってくる。草木とBBQの匂いを含んだ風が、耳の横を走り抜け、その心地よさに私は目を細めた。


 皆の話し声。


 時々笑い声。


 そこから少し離れたところで、椅子に座る私と、隣に立つ拓也(たくや)。


 あの頃、この人の声を聞くことに、生乾きの傷口に指先で触れるような、そんな印象を持っていたことを思い出す。


 しかし、今私の隣から聞こえてくるその声に、痛みを伴う響きはない。


 私の作り出していた壁は、ビジネスという鉄鋼に包まれた弾丸であれば、最も容易く崩壊してしまうほどに脆弱なものだった。

 取引先の担当者として再会してから、この人の声が再び日常に溶け込もうとしている。


「この前の返事、やっぱり変わらないか?」


 風が止むのを待って、誰にも聞こえない小さな声で拓也は問う。


 もし、あの同窓会の頃の自分が同じ言葉をかけられていたのなら、きっと何の迷いもなく拓也の言葉を受け入れていたと思う。

 それは私が、一人の夜にスマホを握りしめながら、心の奥底で望んでいた事だったから。 


 でも今は、頷く事が出来ない。


 『まだ出来ない』なのかも知れないし、『もう出来ない』なのかも知れない。今後の進展が期待できるのか、そうではないのか、当の私自身がはっきりとわかっていない。


 でも、今は、ダメだ。


 今私には、他にやりたい事がある。


 迷いのある状態で安易に頷くことは、拓也の真摯な気持ちに泥を塗ることになる。


 だから、頷けない。


「火、か」


 私の無言を否定と受け取ったのか、拓也は再び言葉を続ける。


「穂乃果、あの頃、火起こしなんて出来なかったよな」そしてプラスチックカップに入った日本酒を口に含め、複雑な何か感じとるように眉間に皺を寄せる「そういう事、なのかな」


 私は無言で頷いた。


 若い頃、拓也を含めた友人たちとBBQをした事があった。あの頃の私は、火起こしに悪戦苦闘する男の友人たちを遠目に見ながら、食材のカットとおしゃべりに夢中になっていた。


 でも今の私は、頬を煤と汗で汚しながら、一人で火を育てている自分をなんだか誇らしく感じている。


「お前、やっぱり変わったよ。もちろんいい意味で。逞しくなった」拓也は続ける。


 自分は変わったのだろうか。

 いや、そうじゃない、戻ったのかも知れない。拓也に会う前の自分に、ほんの少しだけ。


 小学生の頃、あの冬の夜、私は自ら起こした火を眺めていた。


 そう、ある幼馴染と一緒に。


 そして今の私は、再び燃え始めたその火を、もう少し眺めていたい。


「ごめんね」


 私の声はひぐらしの物悲しげな声に薄められ、冬の吐息のように消えていった。


「せんぱーい、柳井やないかちょーう、新しい料理が出来ましたよー! 究極のローストビーフでーす!」


 川上が呼んでいる。

 いつまでも二人で黄昏ていると、また村田さんに変な疑いをかけられるかも知れない。


「わかった! 今行くから」


 そう答えて、隣に立つ拓也に目をやる。

 彼はやるせない表情で、でも無理に作ったような笑顔で頷いた。


 初夏の夕暮れは長い。


 昼と夜が混ぜ合わされた時間は、二つの相反する気持ちがない混ぜになり、人の判断を鈍らせようとする。


 拓也の表情にほんの少し罪悪感と、後悔を感じている自分に終止符を打つように、私は歩みを早めた。



   △



 ーーあの同窓会の夜も、そんな気分に陥りそうな予感があった。


 休日出勤を終え、疲れ果てた私は、おぼつかない足取りでコンビニに立ち寄る。


 無遠慮な光に、やつれてボロボロの肌を照らされながら、私は不安定な気持ちを沈めるために、窓際に陳列された雑誌を手に取った。


 読んではいない。

 ただ眺めるだけ。


 顔を上げると、窓ガラスには今にも泣き出しそうな自分の顔が写っている。


 そこに、懐かしい顔が映り込む。


 かなりの年月が経っていたのに、私にはその人物が誰なのか、すぐにわかった。


 あの日、変わらない日々が続くと思っていた、そんな矢先ーー


 私は、慎三郎しんざぶろうと再会した。




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