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第8話:2回目 初心者キャンプ②

    重たいドアを開けると、押し固められたようにな重たい湯気が、堰を切ったように溢れてきた。

 身体が押し返されるような感覚に逆らいドアを抜けると、そこには見事な温泉が広がっていた。


 初心者ということもあり、設備充実、至れり尽くせりの、このキャンプ場を選んで良かったと心から思う。まさか温泉旅館と見紛う程の温泉施設が、管理棟に併設されているとは。


 夕食の下拵えを終え、夕食前に汗を流そうという話になり、僕たちはキャンプ場内の温泉にやってきていた。


 当然だが、僕は男湯、穂乃果は女湯である。


 身体を洗ってお湯に湯かる。

 疲労感がこびりついて重たくなった手足に、温泉のなんちゃらという有効成分が染み込んでいく気がする。鍋に放り込まれたインスタントラーメンって、こんな気分なんだろうな、なんて情緒もへったくれもない事を考えながら、沸騰した水面で揺れるラーメンのように手足をゆらゆらと泳がせた。


 隣の女湯では、穂乃果もゆらゆら揺れているのだろうか。

 想像して、その肢体の細部まで想像してしまい、いやいやマズイだろと被りを振った。


 しかし、不思議なもんだ。


 数年前に再開したあの日、まさか穂乃果と二人でキャンプに興じている自分の姿など、全く想像していなかった。


 自分の手をみる。

 不透明な水面で、自分の輪郭がぼやけている。


 そもそも、いい歳の男女の関係が、近づく事も離れる事もなく、同じ距離感を保ったまま、同じ向きで進み続けるなんて、実は結構不自然な状態なのではなかろうか。

 そんな疑問に紐づけられ、様々な思考が浮かび上がってくる。

 僕らは、所謂友人同士なんだろうか。

 それが、僕たちをカテゴライズ出来る、唯一の関係性なのだろうか。


 それ以外は、ないのだろうか。


 一つだけ、確実なことがある。

 僕らは互いに、互いが居心地のいい距離感を把握してしまっている。


 お互いが近づいたり離れたりを繰り返しながら、勢い余って交差したり、絡まったり、あるいは反発しあって離れたりーーそういう試行錯誤と進展の可能性がある状態は、とうの昔に終わってしまった。

 今あるのは凪。

 波打つことのない海と空が、互いに交わることなくいつまでも広がり続ける。


 小学生の僕は、波うち、絡まり、離れる、そんな面倒な関係性に不安を感じていた。


 しかし今、終わりない平行線を歩く僕は、あの時と違った種類の不安を感じている。


 変わらない関係。


 それはつまり、終わっているのと同じなのではないだろうか。


 露天風呂へのドアを開けると、初夏の空気が吹き込んでくる。内風呂の温度差が大きく、寒いくらいだ。

 うー、寒い寒い、と呟きながら、ゴツゴツした岩肌にもたれ掛かる。日は傾き、新緑を湛えていた葉も、薄く影を纏い始めている。


「お兄さん、ここにはよく来るのかい?」


 唐突に、露天風呂の先客に声を掛けられた。見ると、気のよさそうな中年の男性がこちらに笑いかけていた。


「いや、あの、初心者なんで、初めてなんです」


 答える義理はない、という愛想のない考えも頭をよぎる。いや、普段の自分ならそれがスタンダードな反応だ。でもぎこちない笑みで答えられたのは、この人もまたこのキャンプ場を楽しむキャンパーの一人なのだという考えに思い至ったからだ。


 なんだろう、同じ楽しみを共有する者同士の、不思議な連帯感。


「そうかぁ。ここはいいキャンプ場だよ。特にこの露天風呂は最高だ」


「そうですね」


「一人で来たのかい?」


「えっと」


 そこで答えに詰まる。

 先ほど頭の中を巡っていた『僕と穂乃果の関係』について、図らずしも言語化を迫られるシチュエーションだった。

 友人、と答えようとした。

 しかし一瞬の思いつきが、僕に別の言葉を吐かせた。


「カノジョと……」


 その言葉は、思っていたよりもすんなりと、心の窪みに嵌ったような気がした。


 例えそれが、穂乃果の認識とは異なっていたとしても。


「そうか」おじさんは嬉しそうに頷いた。「私も妻と来ているんだ。いいよな、二人のキャンプってのも」


「仲がいいんですね」


「いやぁ、仲がいいのかな。結婚して20年、長く一緒に居すぎると、仲がいいとか、悪いとか、そういう感覚じゃないんだよなぁ」


「そう、なんですか?」


「長く一緒にいるとね、お互いの求めてる事もなんとなくわかってくる。そこに甘えが生じて来るんだろうね。敢えて言わない、答えない、そういうのが普通になってくる」


「甘え……」


「そうなっちゃうと、なんて言うかね、逆に相手の内面がわからなくなって来るんだ。表面的な信号に対して、反射的に動いているというか。そう、やり込んだゲームを惰性で続けているみたいな、そんな感じ」


 おじさんは、皮肉めいた笑みを浮かべた。


 僕はなんだか陰鬱な気持ちが込み上げる。この人の言っている事が、何となく分かる自分がいる。


 僕の感情を見抜いてか、おじさんは少しバツが悪そうな表情をした。


「でも、そんな時、私たちはキャンプに来る」


 そして両の手で水を掬い、尊そうに見つめた。

 掌で小さな火種を守るように。


 東屋の軒下を、初夏の風が吹き抜ける。


「二人で火を見ていると、あるんだ。お互いの気持ちが、通じ合ったと思える一瞬がね」



 △



 風呂から上がると、穂乃果がコーヒー牛乳の自販機の前で突っ立っていた。

 声を掛けずに眺めていると、財布から千円札を取り出し、自販機に入れ、ボタンを2回押す。出てきたコーヒー牛乳とフルーツ牛乳を両手に持って、涎でも垂らしてそうな表情でニヤリと笑うと、弾む足取りで椅子に近づき、座る。

 二つの牛乳の蓋を同時に開け、いざ飲み干します、とコーヒー牛乳に口をつけたところで、僕の存在に気付いたようだ。

 あからさまな落胆の表情見せると、口をつけていないフルーツ牛乳を一瞥し、心底嫌そうな顔で僕に差し出す。


「ほら……」


「いや、いらないけどさ」


 ため息をついて、僕は自分の分のスポーツドリンクを買う。穂乃果の座る椅子の隣に立って、それを飲む。


「風呂、どうだった?」


 そう尋ねる穂乃果の頬は、コーヒー牛乳でも冷える事なく、赤く上気している。


「かなり良かった」


「風呂のあるキャンプ場って、大体こんな感じなのかな」


「いや、ここが特殊らしいよ」


「そうなの?」


「風呂で話したおじさんが言ってた」


 そこで、先ほどのおじさんが視界の隅に映る。おじさんは隣の女性と楽しそうに話していたが、僕の視線に気づくと、軽く会釈をした。


 僕も会釈を返す。


「何やってんの、慎三郎」


「あ、さっき風呂で話したおじさんがーー」


 そこまで言って、僕は先程口走った言葉を思い出してしまった。

『カノジョと……』

 顔が熱くなる。

 おじさんには、僕たち二人がそういう関係のように見えているのだろう。


「慎三郎、のぼせてるんじゃない?」


 名残惜しそうにフルーツ牛乳を差し出す穂乃果を無視して、僕は一人、自分の失言に身悶えていた。

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