春と呼ぶには遅く、夏と呼ぶには気が早い、そんな色づき始めたレモンのような太陽が登る土曜日の朝だった。
前回は川上夫妻におんぶに抱っこだったから気付かなかったけれど、コンパクトカーの限られたスペースにキャンプ道具を詰め込むのは中々難しい。
朝っぱらから、答えがあるようでない困惑のパズルゲームに頭を捻りつつ、なんとか納得のいく回答を導き出した僕と穂乃果は、今回のキャンプ地に向かってアクセルを踏み込んだのだった。
「キャンプ道具って、なんであんなだけいろんな種類があるのか、わかった気がする」と穂乃果「高くてコンパクトで軽量な道具じゃないと、積み込めるものが制限されてくるんだね」
「取捨選択が重要だ。次回の教訓にしよう」
「明らかにいらないものがあるんだけど。慎三郎のガンプラとか」
「穂乃果のマンガもな」
お互い悪態を吐きつつも、空気は悪くない。
これから起こる未知に対しての高揚感が、狭い車内を満たしている。
△
【買い出し】
穂乃果「慎三郎、ビールはこれでいい?」
慎三郎「いいんじゃない? あ、穂乃果! いい肉が売ってるぞ、国産黒毛が半額!」
穂乃果「うわー、絶対美味い! 絶対美味いってこれ!」
慎三郎「夜中に食べるカップ麺も買っていこう!」
穂乃果「デザートにプリン買ってもいい?」
慎三郎「何これ、シャアの『オイルシャーディン』だってさ! 絶対買いだろ!」
穂乃果「ってか、こんなに買って車に積める?」
慎三郎「あ……」
【入場】
慎三郎「えっと、予約してた、あの、桑野、です……」
慎三郎「あ、燃えるゴミ……この袋、です……」
慎三郎「はぁ、あの道をまっすぐ、はい、右側のサイト……あ、多分大丈夫、です……」
慎三郎「あ、えっと、あ、薪……、あ、あそこの持っていい? あ、はい……」
穂乃果「受付、どうだった……?」
慎三郎「緊張した……」
穂乃果「よくやった、慎三郎!」
【設営】
穂乃果「慎三郎、そこのペグとって!」
慎三郎「そこってどれだよ!」
穂乃果「それだよそれ! あ、ああああぁぁ! なんか倒れてきたし!」
慎三郎「うわあああああ!」
穂乃果「うわあああああああああああ!」
△
椅子に腰掛けて空を仰ぎ見る。
緑の屋根が視界の半分を覆い隠し、風と共に揺れ動く。やがて産まれていくる生き物の胎動のように、柔らかく、しなやかで、力強い。新緑をつけた枝葉が、光を透かして黄緑色に縁取られていいた。
僕もまた、空に枝葉を伸ばす。
縁取る色は、赤い。
大きく息を吐いた後、テーブルに置かれたコーヒーを手に取り、二口目を口に含んだ。
下の奥に感じる苦味。
鼻腔を抜ける芳香。
おそらく土と、草葉の匂いなのだろう、独特な林の匂いがコーヒーの芳香と混ざり合う。僕はその香りを逃すまいと、深く、深く息を吸い込む。
そして長く息を吐いた後には、口の中に温かさとともにのこるコーヒーは、わずかな酸味を含んだ新たな顔をのぞかせるのだ。
コーヒーの一口に、これだけ多様な表情がある事に、僕は驚く。
この匿名性を水に溶かしたような漆黒の液体はは、散らかったデスクの片隅で、ただ無意識の内に消費されていく、そんな飲み物だと思っていた。
しかし、そんな真っ黒でのっぺらぼうの飲み物を一口、また一口と流し込みながら、カップの中で揺れる水面にすら、何らかの表情を読み取ろうとしている自分に気づいた。
コーヒーを一杯飲む、ただそれだけの事に、人はこんなにも想いを巡らすことが出来るんだ。
「身体が、風に乗って広がってくみたいだな」
設営の疲労で、手足は重く、地面に根を張っているようだ。しかし感覚は、そよ風一つ、虫の羽音一つすら感じられるほどに、研ぎ澄まされているような気がした。
まるで自分の身体が、この自然と一体化しているような、不思議な感覚だ。
「疲れた体に、そよ風が心地いいわぁ」穂乃果が答える「ずっとこうしてぼーっとしていたい」
「だな」
「うん」
「ん……」
言葉を選ぶのすら億劫になり、二人の間に再び沈黙がが訪れる。
僕はカップから上る湯気の行方を、視界の片隅で追っている。
遠くから、子供の声。
「平和だねぇ」
「んだ」
僕は目を瞑った。
おそらく穂乃果もそうしているのだろう。
穏やかな沈黙が、それを教えてくれる。
設営を終え、夕食を準備するまでのしばしの間、僕達二人は、こんな風に無為に過ぎていく時間を楽しんだ。