襲いくる眠気に抗えなくなったらしく「先、寝ます」と言い残し、穂乃果はテントへと消えていった。
一人残された僕。
他人と極力関わらない生活を送っている僕にとって、社交性というスキルは洞穴昆虫の視覚なみに不要な能力であるらしい。気付けば美容師のお兄さんとの雑談ですら、冷や汗をかきながら交わすレベルまで落ちぶれてしまっていた。一度、一念発起し一人ラーメン屋に入ってみた事があったが、暇そうな店主にひたすら話しかけられて、味もわからないまま逃げるように店を出た事があった。
そんな僕だったが、今夜は不思議と心が落ち着いている。
それは、目の前で燃える、この焚き火のおかげなのだろうか。
「本当のところ、どうなんですか?」穂乃果のテントから物音が聞こえなくなったのを確認し、川上奥さんが小声で囁いた。「佐々木さん(穂乃果)とは?」
女性は大概こういう話に興味があるようで、川上奥さんも例外ではないようである。どうなんですか、と問われても、どうなんでしょうね? と逆に聞き返したくなる。
正直よくわからない、なんて初恋に悩む中学生の恋愛観みたいな言葉が口をついて出そうになった。
逡巡し「焚き火……」僕はそう呟く。
「焚き火?」
川上くんと奥さんが二人で目の前の焚き火を見つめる。
「小学生の頃ですかね、二人で年明けを待ったことがあったんです」自然と滞りなく言葉が溢れてくる。「すごく寒くて、そしたら穂乃果が、枯れ草を集めて焚き火を始めたんです。最初は全然付かなくて、でも二人であーだこーだ言い合いながら、最後に小さな火がついた」
両手を焚き火にかざした。あの時の焚き火はもっと小さく、弱々しかった。でも‥‥
「暖かかったんです、すごく。身体だけじゃなくて、心も温まるような気がした。僕はただ、そんな火をもう一度見たいなって、そんな風に思っています」
そこまで話し終えて、二人が何やら神妙な顔をしている事に気づく。自分の顔が熱く火照っているのは、この焚き火のせいだけではないだろう。
火は『空気』を作り出す。
そして『空気』とは、人と人のつながりだ。
とあるキャンプ場の春の夜の空気も、十数年前に感じたあの冬の夜の空気も、目の前で慎ましやかに燃える火が、形作ってくれていた。
火を見つめる。
観えてくるのは、今の自分を形作った人々、空気、日々の回想録。
「焚き火って、いいですね」
そんな言葉が、自然と口をついて出た。
川上くんと、川上奥さんも、火を見つめながら何も言わず頷いた。
テントに戻ると、寝袋に口元まで潜り込んだ穂乃果が寝息を立てていた。よくもまぁ、こんな無防備に寝てられるもんだと僕は呆れる。
起こさないように注意しながら、自分の寝袋の中に滑り込むと、ナイロンの擦れる音がやけに大きく響いた。布団のような重量感は無く、全身を包み込むような抱擁感が、肉体労働とアルコールで疲れた体に心地よかった。染み付いた匂いなのだろうか、少し焚き火の香りがした。まるで火に包まれているような感覚に身を委ね、僕は目を閉じる。
「おやすみ」
誰にともなく、僕は呟く。
眠りはすぐに訪れた。
△
穂乃果と川上奥さんが作ってくれた朝食を食べ終え、のんびりとコーヒーを楽しんだ後、撤収作業に取り掛かった。
長いようで短かった初キャンプが終わる。
非日常が日常にゆっくりと切り替わっていく感覚に、なんとなく名残惜しさを感じていた。皆で囲った焚き火台が仕舞われ、舌鼓を打ったテーブルが畳まれ、暖かな眠りを与えてくれたテントが分解されていく。
衣食住、全てを兼ね備えた家で過ごす日々と比べて、確かに不便ではあった。
でも、自分が日々何気なく行なっている生活、行動の一つ一つに、明確な意味づけがされていくような、不思議な快感があった。寒ければ薪を組んで火を焚き、お腹がすけば水を汲んで調理し、暖かな寝床が欲しいなら自分の力で組み立てる。
何をするにも、自分が主体と成らざるを得ない。
だからこそ、気付かされる。
自分が生きているという事実に。
「あの、これ」ぼーっと感傷に浸っている僕のに、川上君が袋に入った何かを差し出した。「焚き火台です。まだほとんど使ってないんですえど、最近新しいものを買ってしまったから、もしよろしければ」
「え、いいんですか?」
「はい」
川上君は笑顔で頷いた。
「そんな、悪いよ」
「昨日の『火』の話、なんだか気付かされた気がしました。僕も妻も、いや、火を使い始めた人類の全てが、火の生み出した縁とか、絆みたいなものによって、繋がっているのかもしれないですね」
「いや、そんな大袈裟な話じゃないよ」
「いえいえ、これは僕の妄想なんで。でも、何回やっても新たな気付きがあるなぁ。やっぱりキャンプって最高ですね!」川上君は一人で納得したように頷く。
「そうだね」
その言葉は、半分は社交辞令。でももう半分は、どうだろうか。
「この焚き火台で、桑野さん(僕)の探している火を見つけてください」
そして、僕の初キャンプは終わった。
川上夫妻の車から降り、アパートの階段を僕と穂乃果は無言で上る。
ドアを開けると、またいつもの日々、いつもの現実が洪水のように流れ出していた。辟易する僕の横で穂乃果が言う。
「計画を立てよう」
「え?」
「次どこ行くか。そのためにはまずテントを買わなきゃ。慎三郎、パソコン立ち上げて!」
そう、まだ始まりに過ぎない。
「おう!」
僕は頷いた。